肥満化ウィルスにご用心
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部屋の中に、玉葱を炒めるいい香りといい音が広がった。
この春から実家を離れ、短大に通い始めた笹原ミキは、慣れない手つきでフライパンの中の玉葱をかき回す。
核家族で何不自由なく育ち、母は専業主婦だった彼女には、家事の経験がほとんど無い。
おまけに生来の不器用さと適当さも相まって、引っ越して1週間しかたっていないのに彼女の部屋はごちゃごちゃにひっくり返っていた。女性の独り暮らしというより、完全に男の部屋である。
それは料理も同様で、この1週間、失敗続きである。昨夜はパスタを茹でてみたが、いざ食べてみると、スナック菓子の食感だった。
玉葱をテキトーに炒めて、次々に別の材料を放り込む。キャベツ、人参。どれも形が全く揃っていない大きなカケラだった。
休日のお昼ご飯として、彼女は野菜炒めを選んだようだ。最後に、豚肉の細切れを投入する。
「どれくらい炒めればいいのか、全然わかんないや……」
ケータイの着信音が響いたのは、そんな時だった。
「もしもし、ハルコどうしたの? ……えっ! 今日だっけ?」
ミキは急いでベッドに放り投げていたスケジュール帳を確認する。日曜日、ハルコと買い物、12:30に駅前集合、と書いてある。壁の時計を見ると、12:40分を指していた。
「ごめんっ! すっかり忘れてた! ……うん、うん、今からすぐ行く!」
ケータイを切り、慌てて準備を使用とするミキ。しかし、
「あっ、お昼ご飯……」
作り掛けの野菜と豚肉炒めが目の前にあった。人参もまだ硬く、豚肉にも火が通ってない。
「う〜……どうしよ。ま、いいや」
火を止めて作り掛けの料理を皿に素早く移すと、ミキは半生のままの炒め物を口に掻き込んだ。
「うえっ、硬い……でも勿体無いし仕方ないよね」
料理の知識に疎いミキには、豚肉はしっかり加熱するという知識は到底知りえなかった。
駅前の若者街を、ミキは友人と買い物をしたりスイーツを食べたりして楽しんでいた。
「やっぱり都会はいいわぁ。地元にゃこんな商店街ないもんね」
高校時代からのミキの友人で、一緒の短大に進学したハルコがしみじみと言った。
両手にはブランド物の紙袋がぞろぞろと下がっている。
「そうだねぇ。食べ物も都会的だし。あ、あそこのケーキ屋、この前テレビでやってたところだよ! 入ってみようよ」
ミキが言った。
「アンタ、さっきのお店でパフェ食べたばっかりじゃん。よくそんなに食べれるわね……」
ハルコが呆れて言ったが、
「甘いものは別腹よ。いいじゃん、今まで食べたこと無いものばかりなんだから。それに、今日はなんだかいっぱい食べれるような気がするんだもん」
ミキは笑顔でケーキ屋へと入っていった。
「いっぱい買い物したわねぇ……もうこんな時間かぁ」
ハルコが見上げた広場の時計は、7時を指していた。
「今から帰っても遅いし……今日は外食しようか。何がいい?」
ミキが聞くと、
「安いところ……」
両手いっぱいの紙袋を掲げてハルコがつぶやいた。
やがてしばらく歩いたところに、「新装オープン記念、本日限り500円食べ放題」の看板を見つけ、2人は迷わず入っていった。
この街の名物料理がずらりと並び、とても500円食べ放題とは思えない品揃えと量だった。
しかし、始めの料理を一口食べたハルコに言わせると、
「なるほど、この味で500円なら納得……」らしい。
そんな彼女は、500円を軽く超える分だけ食べ終えると、箸を置いた。しかし、ミキはというと、
「これ初めて食べたけどおいしいねぇ。う〜ん、これも!」
ハルコの2倍ほどの皿を積み、さらにテーブルと料理を何度も往復して食べ続けていた。
「アンタ、さすがにやばくない? さっきもアレだけ間食してたのに……昔から食い意地は張ってるほうだとは思ったけど、よくそんなに入るわね…」
「だって、食べ放題なんだから食べられるだけ食べないと勿体無いじゃん。今日は不思議と食べれちゃうんだから食べておかないと。独り暮らしだとここまで食べれる機会もあんまり無いと思うし。ハルコもどう?」
「いや、私はもう500円分食べたからいいわ…」
「そう? 結構おいしいのにな……」
パフェ2つとケーキ3つと大量の料理が詰まった胃袋をさすりながら、ミキは再び料理へと向かった。
「うっ……嘘…」
翌朝、体重計に乗ったミキは愕然として数字を見つめた。
「確かに昨日は食べ過ぎたから仕方ないけど、まさか3kgも増えるなんて……」
昨夜、結局1時間ほど食べ続け、ハルコと別れてからもコンビニで買い食いまでしたミキの体重は、彼女の経験上最も大きな上げ幅を記録していた。
恐る恐る履いたジーンズも、ホックがうまく締まらない。
その上には、プニっとした腹肉が少しつまめた。
「これはやばいなぁ……」
憂鬱な気持ちで、ミキの月曜日は始まった。
体重が増えたことに気落ちし、ダイエットを決意したミキだったが、意思とは全く逆に体は行動した。
通学途中のコンビニでパンを2つ買ったのに気づいたのは、1限後に2つとも食べ終えた後だった。
学食のランチセットも、気がつけばLサイズを注文していた。
ランチをぺろりと食べきった後は、当たり前のように購買でお菓子を買っていた。
しかし3限目が終わる頃にはすでに空腹の知らせが来るのであった。
「なんかおかしい……なんでこんなにお腹が空くの? 痩せなきゃならないのに……」
放課後も買い食いをした。それも、普通の人の倍以上の量を。
夜の飲食店のバイトでは、出されたまかないを3回おかわりした。
実は誰にも気づかれること無く(本人ですら自覚の無いまま)つまみ食いをかなりしていた。
家に帰ると、当然のようにスナック菓子を持ち出し、あっという間に一袋間食した。
気がつけば何かを食べている。胃袋が空になる暇なんてこれっぽっちもない。
そのはずなのに、なぜか空腹は収まらない。
ミキ本人が食べすぎを自覚するのは、決まってほとんど食べ終えてからだった。
食べ終えてから自覚して、これ以上食べないと決める。
しかし、また気づけば、目の前には空になった皿や袋が転がっているのであった。
そんな生活が毎日続いた。水曜日にはズボンのジッパーが完全に上がらなくなった。
「……これはヤバイヤバイヤバイ……」
思わずミキが体重計から飛び降りたのは金曜日の夜だった。
先週からの合計での増量値は10kgを越えていた。
もともとスレンダーで細身だったミキの体型は、今はほんのりと肉がつき、ややぽっちゃり体型に変わっていた。
ジーンズのホックは完全に閉まらなくなって、ぽってりとお腹の肉が乗っていた。
二の腕もやわらかくなり、あごを触ればすこし二重になっている気がする。
元の顔がいいので、全く問題なく可愛らしいままであったが、やはり年頃の女性にとって10kgの増量は大きすぎ、ショックを隠せない。
「う〜ん、どうしようっていったってねぇ」
翌日、ミキに呼び出されたハルコがコーヒーをすすって言った。
「何があったのか知らないけど、コレだけ食べてりゃぁねぇ……」
ハルコがちらりと目をやった先には、2切れ目のケーキを食べ終えそうなミキがいた。
「おかしいのよ……食べたくないはずなのに、気づけば何かを食べてるの……」
泣きそうな声を上げながらも、ミキはケーキを口に運ぶ。
「食事制限……っつっても、それだけじゃ無理みたいね。運動しかないんじゃない?」
「運動かぁ……」
「よっしゃ。私も全面協力してあげるから」
「ありがとう…」
次の日、ハルコはミキにスケジュール表を出した。
「というわけで、今日から間食禁止っ! 体調を崩しちゃ元も子もないから食事は3食しっかり、野菜や良質淡白を中心にっ! 今日からちょうどゴールデンウィークだし。私もヒマだし、この際とことん付き合ってあげる! この1週間は私と一緒に生活してダイエットに励むこと! いいわね?」
「は、はいっ先生! ……これで痩せられるかなぁ」
「栄養学専攻の私がサポートするんだから安心しなさいっ!」
ミキのダイエットが始まった。ハルコの部屋に世話になりながら、徹底的に活動が始まった。
食事は毎食ハルコが選んだ低カロリーで必要な栄養のたっぷり入った健康食、その間にランニングやウォーキングなどの運動を取り入れた。
「ほらほらぁ、もっと気合を入れて!」
「は、はいぃぃ……はぁ、はぁ…」
初日の夜、体重計にのってみたミキだが……
「な、なんでぇっ!」
減っていない。それどころか、300gほど増えてしまっている。
「初日はそんなものよっ。さぁ、めげずに明日もがんばるよ!」
ハルコが励ました。
次の日も、同じようなメニューが続いた。
日ごろ運動しないミキにとって、かなりきついものだった。
初日に比べ、休憩することが多くなった。
そして夜……
「な、なんでよぉぉ……」
やはり増えている。ついに60kgの大台を突破してしまった。
「うーん……問題は無いはずなんだけどなぁ……何がいけないんだろう。アンタ、つまみ食いなんかしてないでしょうね?」
「してないよぉ! っていうかここハルコの部屋なんだから、つまむものが無いくらい知ってるでしょ?」
「それもそうね…じゃぁなんで?」
さすがにハルコも不思議に思ったが、筋肉がついているとの結論でその夜は寝た。
次の日
「はぁ、はぁ、はぁ、ん、っ、はぁ、はぁ」
「ほらほらぁペースが落ちてるぞ!」
「は、ハルコっ、今日はもうだめ! お腹すいたっ 疲れたっ!」
「もう〜まだ3日目だってのに、弱音吐くの早いよ!」
「今日は無理っ、はぁ、はぁ、ちょっと、休ませてっ!」
仕方が無いので、2人は一旦ハルコの部屋に戻った。
「もう〜大丈夫? しっかりしてよ〜」
動くのも辛そうなミキを、ハルコが支えていた。
部屋に戻ると、ばたっ、とミキはベッドに倒れこんだ。
「そんなんじゃ痩せれないよ? ……ミキ?」
ミキに返事が無い。
「ミキ? ……ミキッ!」
急遽ミキは近くの病院に運び込まれた。
医師の手当てで、何とか意識が回復し、ハルコはほっと胸をなでおろした。
そんな中、医者が出した答えは、
「軽い栄養失調ですね」
ハルコは耳を疑った。医師に、もう一度言うよう頼む。
「栄養失調です。今日は栄養剤を点滴しましたから、もう帰ってもいいですよ。お大事に」
「何で? なんでぇ?」
ハルコは何度も繰り返した。自分の栄養管理は十分だったはずだ。
必要な栄養分は全てそろえてあった。
しかも、10数キロも脂肪がついてるのに栄養失調だなんて……
隣を歩くミキは、とても倒れるほど栄養が足りてないとは到底思えない。
ふっくらと肉がついたぽっちゃり体型で、血色もいい。
ちなみに、先ほど病院で体重を量れば、痩せるどころか、昨日より1kgほど増えていた。
「もういいよハルコ、ありがとう。もう私のことはいいから……」
「アンタがよくても、私がいやよっ! 栄養学専攻としても恥だわっ! 何か原因があるに違いないのよっ」
その夜、ハルコの部屋で、ミキとハルコはネットで症状について調べていた。
「太る 急激に 痩せられない……検索っと。」
いくつかの検索結果が画面に表示される。
「えーっと……うーん、ペット減量日記、違うっ! …力士の体の作り方、違う違うっ! ……ん? 何々、かわいい女の子を強制的に肥満化って何よこのサイトッ!」
参考になりそうなサイトはなかなか見つからなかった。が、数分後、
「あっ、このサイト!」
ミキが指差したのは、3ページ目一番上のサイトだった。
「えーっと、丹久森医師の相談室……1週間に10kgも太る、急に食欲が増す、栄養失調、このような症状の方へ……だって?!」
早速ハルコはサイトをクリックした。
笑顔の青年医師の写真と、病院の解説が載っていた。
「ここに相談してみなさいよ」
「わかった、そうする」
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