肥満化ウィルスにご用心
次の日、早速ミキは住所を調べ、丹久森医師のもとを訪ねた。
ミキが急に体重が増えてからのことを全て話すと、丹久森医師はすぐに真剣な顔になって、
「生の豚肉を食べた覚えはありませんか?」
こうミキに尋ねた。
ミキには心当たりが無い。そんなことあったっけ?
うーん…… あったような、なかったような…
「っ!!!」
急にミキの脳裏に蘇ったのは、まさにあの日、体重が増え始めた前日、ハルコとの買い物の日だった。
「2週間前の日曜日に、炒め物を作ってたんですが、急に約束を思い出して、時間が無いからってつい……」
「豚肉を生のまま食べちゃったんですか?」
ミキは黙って頷いた。丹久森医師は、なにやらカルテにサラサラっと書くと、ミキに向き直って言った。
「笹原さん、アナタの症状は十中八九“キシニコウィルス”による、“ミトボリック症候群”です」
まったく耳慣れないその名前に、思わずミキは混乱する。
「キシニ…ミトボ…? な、なんですかそれ?」
「キシニコウィルスはキシニコ博士という人が10年ほど前に遺伝子改良で作り出した人工的なウィルスでね。何のために作ったかというと、単刀直入に言えば、“太らせるため”です」
「太らせるためぇ?! なんでまた……」
丹久森医師は説明を続ける。
「キシニコ博士は農酪業促進の研究をしていたひとでね。家畜を効率よく育て、素早く出荷できるようになる研究をしていたんですよ。そしてあるとき彼が遺伝子改良で見つけたのが“キシニコウィルス”、別名、“肥満促進ウィルス”だったんです。
コレに寄生された家畜は次々に栄養を取り込み、普通の数倍の速さで育ち、肥り、それによって農家は大きな利益を得た。中でもブタなどに定着しやすかったから、専らブタを肥らされるために使われていたんですよ。
今は動物愛護の関係から法律で使用が禁止されているけど、今でも下等な養豚場ではこっそり使われているんです。アナタが食べた肉は安くありませんでした?」
「……スーパーの特売でした」
「そうでしょう。キシニコウィルスは加熱さえちゃんとすれば完全に消滅するのです。しかし加熱が不十分なまま食べると、人間さえもそのウィルスに寄生されてしまう。寄生されるとどうなるか……」
「どうなるんですか?」
ミキはつばを飲み込んだ。
「ウィルスは、入ってきた栄養分をエサに成長します。そして排出物として、糖分と油分を出すのです。その繁殖力はすさまじく、1日で数万倍になるといわれています。そんな数のウィルスが一斉に糖と脂を精製するのですから、寄生された人は肥満していきます」
言葉も出ないミキを他所に、医師は説明を続けた。
「さらにやっかいなのは、このウィルスは“栄養分のほとんどを横取りする”ということです。先ほど言ったようなすさまじい繁殖力で、さらに並大抵ではない食欲で、アミノ酸やカルシウム、ビタミン、鉄分など、人間に必要不可欠な栄養分を奪い続けます。人はちゃんと食べているのに、そのほとんどをウィルスに取られてしまうから、常に体は栄養不足。だから次々に食べて、ウィルスが食べ残した栄養で体を養うしか方法がないんです。
当然、ウィルスは食べた分だけ糖と脂を体内に流しますから、その分さらに肥満する。痩せたいけど、大量に食べなければすぐに栄養不足に陥る、さらに、食べた分は何倍にも増幅されて体内に蓄積される……簡単に言えば、一日に栄養が10必要なのに、10食べても1しか吸収できず、残りの9は脂肪になる。食事の量を10倍にすると栄養分は足りるけど、蓄積される脂肪は90になってしまう……
とまぁ、こんな悪循環で、寄生された人は際限なく太り続けてしまうことになります。まるで肉の塊、ミートボールのような体になってしまうため、ミトボリック症候群と呼ばれているんですけどね」
「…………」
言葉を失ったミキの目には、涙が浮かんだ
「どうすれば、どうすれば治せるんですかっ?!」
「私の運営する、特別治療院という場所があります。そこではキシニコウィルスに感染した多くの患者が治療を受けています。まだ、完全な治療法は見つかってませんが、そこで少しずつ療養していくことになります。長期になるかもしれません……」
「長期、ですか……」
「治療しないと、死ぬまで太り続けることになりますが……」
「はいっ、わかりました! 治療しますぅ!」
次の日、ミキは部屋を片付け、大家さんに事情を話した。
短大に休学届けを出し、その足で丹久森医師のもとへ向かった。
丹久森医師の運転する車は、街から離れた郊外の山の中、ぽつんと建つ建物へ入っていった。
「ここが療養所です」
促されるままにミキは建物に入った。途端、ミキは絶句した。
周りにいた人々の光景に、目を疑ったからだ。
医師や看護婦と見られる人が数人、それ以外の人、つまり患者は、全て肥満していた。
それも並みのデブレベルじゃない。体重200kgはありそうな人ばかりであった。
大きな、服からはみ出た腹を抱え、のっしのっしと歩いている。
そもそも歩けずに車椅子の者も多い。男も女も、子供も、若者も、年配の人もいる。
廊下から覗ける個室の中には、すでに人とは思えない肉塊になっている者もいた。
思わず、ミキの目から涙がこぼれた。
「がんばって治療しましょう」
丹久森医師が肩をたたいた。
ミキが通されたのは、一番奥の部屋だった。
扉が無駄に広い。5人は並んで入れる広さだった。
中の部屋も、個室にしてはかなり広い。
広い部屋に、ダブルベッドより1回りは大きなベッドが置かれている。
これもあれも、全て肥満後のことを考えてのことなのだろう。
簡単な施設説明を受けたあと、ミキはベッドの上で横になっていた。
今は無駄に広いこのベッドも、扉も、部屋も、いつしか自分ピッタリのサイズになってしまうのだろうか……ミキはこの先の自分を想像し、涙に耐えた。
窓から差し込む夕日が消えた頃、ミキの部屋に夕食が運び込まれた。
「…………」
言葉を失ったのは、その病院食とは思えないほどの量だった。
カロリーの高そうな料理がずらりと並んでいる。
「説明した通り、あなたたちウィルスの患者は、栄養のほとんどをウィルスに取られてしまう。だから、これだけの食事が必要なんですよ。コレだけ食べても、あなたの体が確保できる栄養分はコレだけなんですから」
給仕は、一番橋の皿に小さな丸を描いた。
全体の5%にも満たないような量だった。
「食べ終わったら、そこに置いておいてくださいね」
給仕はそういって去った。
「…………」
あの、5%に満たないような料理が私に必要なのだとしたら、他の料理は誰のもの? ウィルス? じゃあ、そのウィルスはその栄養分で何を作るの? 脂肪? それは誰に溜まるの? 私? 誰が料理を食べるの? 私?
耐え難い現実に、ミキは涙を堪え切れなかった。しかし、
ぐぅぅうううぎゅるるるるるるる
腹の虫が反応した。
食べたくないのに……太りたくないのにぃ……
ミキは箸に手を伸ばした。
パクッ ……もぐ、もぐ……ごくん ………
パクッ ……もぐ、もぐ、もぐ、 ごくん …… パクッ
もぐもぐ、ガブッもぐもぐ、ごっくん、むしゃり、むしゃり、ばくばく……
「ひぐっ、うっ……デブ虫のばかぁぁぁぁ……んぐっ、くちゃ、くちゃ、ごくん
っぷはっ……おいしい…おいしいよぉ……」
その日の夕飯はあっという間に平らげ、涙で枕をぬらしながら、ミキは眠った。
次の朝。
朝ごはんと称されてミキの前に運び込まれたのは、昨夜よりも多そうな量の料理だった。
「あなたは少し栄養失調でしたから、その分食べないと、体に悪いんですよ」
当然、栄養失調を補うには、本来この料理の5%以下で足りるのだが。
真っ赤に腫らした目をして、ミキは黙って箸を進めた。涙も出なかった。
ミキは諦めて、ただ、食べ続けた。
目の前の料理を全て食べなければ、また栄養失調で倒れてしまう。
はぐ……もぐもぐ、ごくり。ぱく……んぐんぐ、ごくん。
がぶっ、んぐんぐごく、はぐ、はぐ、くちゃくちゃごくん、
はじめはゆっくりだったペースが、徐々に増してくる。
もはや完全にウィルスに支配されたミキの体は、意識とは別に行動するようになった。
目の前に料理があれば、自然とがつがつと食べるのだ。
ゆっくり食べていては、ウィルスの栄養吸収速度に追いつかなくなってしまうことを、体は知っているのだ。
否が応でも手は勝手に食べ物を口へと運んでいく。
「…っぷはっ ……ごちそうさま、でした」
食べ終わると、途端に気持ちが沈んでしまう。
目の前から食べ物がなくなると、体の反応も元に戻るのだ。
空になった皿を目の前に、自己嫌悪と満腹感がミキを襲う。
朝食が終わると、ミキの体に点滴が施された。
ウィルスの働きを抑制させる薬と、高栄養な液体が入っているのだという。
今やウィルスは腸だけでなく、血液に乗ってミキの体全体にいきわたっている。
点滴でウィルスに栄養分を送ることによって、食べ続けなければならないというストレスを少しでも和らげるためのものだった。
それでも、全てのウィルスの食欲を満たすには程遠く、また、腸に潜む大量のウィルスには栄養が届かないため、ミキは常に空腹状態であった。
そのため、病室には大量の菓子類が置かれていた。
これらの菓子は普通の菓子ではない。最低限の栄養のみをウイルスに渡し、患者に必要なエネルギーをしっかり確保することができる特別な素材で出来ている菓子だ。
「うう……さっきあんなに食べたのに、もうお腹空いちゃったよ……」
パリパリ、ムシャムシャ、ポリポリ、モグモグ……
「っぷ……、でも、コレだけお菓子を食べられるのも、ちょっと幸せだったり……」
なんて一瞬思ったが、食べ物が詰め込まれっぱなしでぽってり膨らんだ自分のお腹が目に入り、すぐに撤回した。
ポリポリ、ムシャムシャ……
「……おいしい」
朝食と同量の昼食が運び込まれるまで、ミキはお菓子を食べるだけで過ごした。
通常の人数人分の昼食を平らげたあとも、ミキの食欲は止むことが無かった。
ベッドの横、机の上に山盛りになっていたお菓子も、半分以上が姿を消し、ごみの袋となった。
2リットルペットボトルのジュースも、2本空いた。
パリパリ、ポリポリ、ごくごく…ごくんっぷはっ! むしゃむしゃ、もぐもぐ……
朝食、菓子、昼食、菓子……と、起きてから食べっぱなしのミキのお腹はボッテリ前に飛び出し、パジャマのすそからちらりとはみ出ていた。
ここ数週間で激太りしたとはいえ、まだぽっちゃりの域を出てなかったミキの体には不釣合いで、まるで妊婦のようになっていた。
それでも、朝食昼食より大目の量が出た夕食は、次々にそこへ吸収されていった。
臨月のようになったお腹を抱えて、ミキはそのまま眠った。