656氏その2
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「はぁ〜ぁ、今日も食べ過ぎちゃった……」
憂鬱そうなため息をついて、若い女性が電車に乗り込んだ。
人の疎らな深夜の電車。
がら空きの長いすに座った女性は苦しそうにお腹をさすった。
胸の下からぽっこりと膨らんだ女性の腹は服を圧迫し、ズボンのボタンが締まらないでいた。
「あぁあ、また太っちゃうなぁ」
女性は、膨らんだお腹をつまんでみる。食べ物が詰まった中身を包む、分厚い皮がつまめた。
名を、大曽根なつみという女性。
昔から趣味は食べることというくらいの食いしん坊で、いつも人一倍食べている。もちろん、取りすぎた栄養はしっかりと蓄えられて、彼女の体をぷくぷくと肥大させていた。体重も、着実に100kgに近づいている。
太ってはいるが、柳原○奈子よろしくかわいらしい外見のため、男性に声をかけられることも多かった。しかし、毎回デートの食事の席でその本領を発揮してしまい、いつもフラれているのだった。
その日は、高校時代の友達と久しぶりに会い、食事会を開いていた。
「みんな久しぶり〜元気だった?」
「3年ぶりくらいだね〜」
「なつみ、あんたまた太ったでしょ?」
皆、なつみの体型をちゃかした。これは高校時代からの伝統のようなものである。なつみは、もちろん嬉しくはないが、特に気にせず笑って受け止めている。
運ばれてくる食事。この日は中華のフルコースだった。
皆食事とお喋りに夢中になる中、1人だけ、料理にほとんど手をつけない女性がいた。
「あれ? あきえ、食べないの?」
「なつみ、忘れたの? 私、昔から食が細かったじゃない」
そう答えたその女性は金山あきえ。同級生の1人だが、なつみに比べると子供のように見えてしまう。
……そもそもなつみが、他の誰よりもどっしりとしているから余計にそう見えるだけだが、普通の同級生と比べても、明らかに細い。背は普通ほどあるが、痩身のせいで小柄に見える。
腕などはもう骨と皮のようで、胸もなく、足も細く、ちょっと力を加えれば折れてしまいそうな体だった。
「私、もうお腹一杯だから…… みんなで私の分まで食べて」
「……なんて言うもんだから、つい2人分食べちゃったじゃない」
誰もいない電車で、なつみが愚痴る。
本当は2人分どころか、3人分は軽く食べていることに本人は気づいているのかいないのか。
「あきえはいいなぁ。あんなにスリムで…… でも、一杯食べれないのは少し可哀想かも… あーあ、一杯食べても太らない体があればなぁ」
電車は、深夜の街を走り抜けた。
ガタンゴトンという心地よいリズムと、満腹から来る眠気で、なつみはいつの間にか眠っていた。
電車は、ゆっくりとスピードを落とした。刻むリズムの間隔がだんだんと短くなっていき、それはやがて停止した。
誰のためでもなく、ドアが寂しく開いた。
「……ふぁ? ……あっ、やばい! 降りなきゃ」
目を覚ましたなつみは荷物を引っつかむと、慌しく飛び出した。
「…あれ? 嘘っ! ここ違うじゃない!」
なつみは振り返ったが、ちょうどドアがピシャリと閉まるところだった。
動き出した電車はやがて加速をしていき、暗闇へと消えていった。
「やっちゃった……」
誰もいない、古びたホーム。小さな、虫の集まった電灯が1つ寂しく灯るだけで、周りには他に灯は見当たらない。電車の音が消えると、虫の鳴く音だけがただ辺りを占領する。
「……ここはどこ?」
駅の表示板は、かすれていてはっきり読めない。隣の駅名は何とか読めたが、なつみの知らない駅だった。
寝ている間に、どこか知らない路線まで来てしまったようだ。
「マジで…… 冗談じゃないよこんなとこに1人なんて…」
とりあえず、改札を出た。薄暗い待合室には当然のように誰もいない。駅前も、バス停どころか車1台ない。本当に、その空間になつみ1人だった。
「……冗談じゃないよぉ…」
鳴きそうな声でつぶやいたが、それを聞いた者もいない。
時間は夜の0時近い。この時間なら、こんな小さな駅に止まるのはおそらくさっきの電車が最後だろう。
なつみは、泊まれそうな場所、せめて人家でも、と思い、少し歩いてみることにした。
街灯もない、両側に林の続く道。曇っているのか、星もない。
「誰かぁ、いませんかぁ」
ほとんど涙声になりながら、なつみは歩いた。
「……あれ?」
駅から程遠くない林の中に、小さな灯を見た。
近寄ってみると、小さな街灯が1つ、ぽつりと灯っていた。
そしてその横には、いかにも古そうな、木製の鳥居が佇んでいる。
「神社……?」
もしかしたら、人がいるかもしれない。そう思い、なつみは鳥居をくぐった。
突き当たりに建物はなく、祠が建っているだけだった。当然神主などは見当たらない。
なんだ…… となつみが肩を落としていると、
こんなところに人とは、珍しい……
誰もいないはずの空間から、声が聞こえた。
「やっ…… 何?」
久しぶりだ… 何年ぶりだろう?
「何? 何ぃ?!」
半泣きで、なつみはへなへなと座り込んだ。
さぁっと風が通りぬけ、林がざわついた次の瞬間、なつみの目の前に、少年が立っていた。
「ひぃぃぃぃっ! お、お化けぇぇぇ」
「誰がお化けだ! 失礼な!」
神職の服を着た少年が、仁王立ちでなつみを見つめる。
状況が読めず、なつみはただ呆然としているだけだった。
「俺はここに祀られた神だ。お前の願い事を1つ叶えてやることができる」
いささか信じがたい話を、あっさりと少年は言ってのけた。
「願い……? 何いってんの……?」
「信じるか信じないかはお前次第だがな。信じないならいいぞ」
なつみは状況が飲み込めなかった。
誰もいない駅に置き去りにされ、暗い神社に迷い込み、目の前に現れた少年は願い事を言えという。
こんなコテコテのファンタジーな状況、すんなりと飲み込めというのも無理な話だが。
逃げようにも、腰が抜けて立つ事もできない。信じたかどうかは別として、なつみはとりあえず願い事を言ってみた。
「太ることなく、お腹一杯食べられる体が欲しい……」
全てを変える事が出来るかもしれないという状況で、なつみのあまりに私的でわがままな願い事に、少年はいささか呆れたが、すぐに真面目な顔になり、
「それはできない」
なつみの願いを断った。
この世は全て等価交換である。どこかに正が出来れば、どこかに負ができる。
この場合、食料を取り込むということとエネルギーを得ることは不可分であり、得たエネルギーをゼロにすることは不可能である。正だけを作ることはできない。
少年がここまで説明したとき、なつみが割って入った。
「じゃぁ、負を作ればいいのね!」
「えっ……?」
「どこか、私が得たエネルギーを受け止めてくれる場所があればいいのね!」
「それはそうだが…… お前が人間である以上、その相手も人間でなければならない。そんな相手がいるのか? それに、1と1を0と2には出来ないから、お前のエネルギーを相手に移す代わりに、お前は相手のエネルギーを得なければならないのだぞ」
なつみは考え込んだ。
先ほどまで少年の言うことなどこれっぽっちも信じていなかったが、念願の体を手に入れるチャンスかもしれない、と思うと、信じずにはいられなくなっていた。
しばらくして、はっ、となつみは思い浮かんだ。
「……あきえ」
「ん?」
「私の同級生の金山あきえ! あの娘のエネルギーと私のエネルギーを交換してちょうだい! 彼女なら小食だから私はエネルギー過多になることはないわ!」
数秒の間、少年は眉をひそめてなつみを見つめていたが、
「それが本当にお前の望む願いか」
なつみは頷いた。
「それでは、その願い、叶えてやる」
強い風が辺りを通りぬけた。後ろに飛ばされたなつみはそのまま気を失った。
風が止むと、少年の姿は消えていた。
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