792氏その2
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「どいつもこいつも使えないっ…」
女はノートPCをカチカチと弾きながら、イライラと吐き捨てた。
ここは離島の小さな研究所。ここでは極秘で新薬の開発が行われている。
本社の命令でここに来た女は心底苛ついていた。
「例の新薬の開発を急がせろ、もし半年以内に回収できれば、この前のミスは帳消しだ」
エリート街道をひた走っていた彼女の初めての、しかし致命的なミス。
進退窮まった彼女に残された最期のチャンスは…
「何イライラしてんですかぁ〜 お茶でも飲んでぇ、リラックスリラックス」
この男によって風前の灯火なのだ。
男の名は木崎。若くして天才と呼ばれ、最高峰の頭脳を持つがそれ以上の変わり者で、この研究所でたった一人で新薬開発にあたっていた。
しかしその手腕は確かで、既にいくつかの新薬開発で実績を上げており、莫大な利益を本社にもたらしている。
「もう期日は3ヶ月もオーバーしてるんですっ! 開発を急いでください!!」
「そぉんな事言ってもさぁ〜 本社の人はいつでもイイって言ったしさぁ〜」
そう、この男、雇われであって雇われではない。
本人の都合に合わせて会社が動く。
機嫌を損ねれば、この我が社にとっての優秀な武器はあっという間に違う会社に移り、大きな脅威となるだろう。
「まぁそうカリカリすんなよぅ、美紗緒ちゅわーん」
女の名前は天野美紗緒。
26の若さながらその有能さで、多くの敵や同期を蹴落としトップを守ってきた女。
このままいけば、女性初の幹部会入りも間違いないといわれていた。
整ったプロポーションはサラブレッドのようにしなやかで、眼鏡の奥には知性と野心をたたえた瞳が光る美女。
こんな事で、せっかくの出世コースから降りるわけにはいかない。
「だからお手伝いしようとこうしてデータを集めてるんです! 早く仕事にかかってください!」
「いや〜、今日はもうヤメヤメ。ほら〜、朝のテレビの占いで乙女座が「凶」って出たからさ。じゃあね〜」
そう言うと木崎はさっさと自分の家に引っ込んだ。
追いかけようと思った美紗緒だが、あの男の機嫌を下手に損ねてはいけない。
その日は来客用の施設に戻った。
1ヶ月が経過したが、もちろん開発はまったく進んではいない。
昼食の時間。
「美紗緒ちゃんってさ〜、美人でスタイルもいいし、何かヒールでグリグリ踏みそうなタイプだよねぇ?」
「…セクハラです。博士」
「まぁいいじゃないの、コレでも食べてさぁ〜」
この島では食料は週に一度、ヘリからコンテナで島に投下される。
変人・木崎の希望でこの方法をとっており、更に食料庫と呼ばれる巨大な建物にもかなりの備蓄があり、天候の悪化でヘリが飛ばない場合にも備えている。
水は豊富な地下水を汲み上げる施設と、それを利用した発電施設。
島の地下には小型の処理施設があり、ゴミはそこに捨てられる。
木崎から連絡があった場合のみヘリがよこされ、本社の一部のエリートが情報や新薬を回収に来るのだ。
複雑な海流は船を拒み、島の外からは建物は見えず完全な無人島。
いわば完全に外界から遮断された空間。
自分がここに開発の催促に来たのはきわめて異例のことだった。
「結果を出すまでは連絡も帰る事も許さん。その時も君の席は無いと思いたまえ」
ここに向かう時の、上司の言葉。
こんな所に長く居るつもりはない。こうしている間にも自分が競争から遅れているという意識が、彼女を苛立たせる。
彼女は木崎から差し出されたバナナを奪い、すばやく口に運ぶ。
「昼食はもう終わりです。時間の無駄ですから、早く仕事しましょう。私はこれで充分ですから」
「小食だなぁ〜 美紗緒ちゃんは」
それからまた1ヶ月ほど経過し、10月。
焦った彼女は色仕掛けで木崎を動かそうと誘惑した。
今まではあえて使わなかったし… 優秀な能力のお陰でその必要もなかった。
しかし状況が状況… 女の武器を使う覚悟を決めた。だが…
「ゴメンねぇ、俺もっと肥った子が好みなんだよね〜 ホラ、このニュース見てよ。「肥満の街」だってさ」
TVでは若い女性が異常に肥満化したというニュースをやっている。
「あの子なんかかわいいなぁ〜」
テレビに映った女性は150kgはありそうな肥満体で、美紗緒にとっては醜い豚にしか見えなかった。
木崎の趣味の前に、美紗緒の計画は脆くも崩れ去ったのだった。
同時に自分の常識を超えた木崎の趣味に頭が痛くなった。
「あの野郎〜ッ!」
よろよろと部屋に戻った美紗緒はイライラをベットの枕にぶつけると、ラーメンを2杯ぺろりと食べ眠った。
11月。
朝、スカートのホックが閉まらず、焦る美紗緒。
つまめる程度の脂肪が腹についている。
以前の引き締まったボディは崩れつつあった。
鏡を見ると、少し大きくなったような気がする身体。
道理で最近着替えがきつくなったような気がしていたわけだ。
(私… 太った?)
たしかに最近食欲が増えたような気がするが…
間違いなく、木崎に対するストレスが原因だろう。
(醜いデブなんて絶対ごめんだわ。帰ったらたっぷりジムで絞らなくっちゃ…)
無理矢理スカートを履くと、朝食にトーストを5枚程食べ、研究所に向かった。
12月。
「美紗緒ちゃん、最近その服ばっかりだねぇ〜」
木崎の言葉に美紗緒は顔をしかめる。
もう5日程、美紗緒は同じスウェットで過ごしていた。
腰のゴムは伸びきっており、おまけに少し匂う。
美紗緒が持ってきた着替えの中で着られるものはもはやこれだけになっていた。
「それにしてもここに来てから肥ったね。ひょっとして、俺好みになる為に肉体改造してるのかな? なーんて(笑)」
たしかに、体重はかなり増えている。
まだ美人には違いないが、もう肥満体といって差し支えないだろう。
以前の引き締まった姿は消えており、腹にはしっかり3つの段差が刻まれている。
この男には言えないが、とっくに下着も入らない為にタオルを切り取って器用に自作していた。
本社に品物を自由に注文できるのは木崎だけで、今の私には、新薬開発完了の連絡しかできないのだ。
正確にはわからないが、以前より20kgは増えているだろう。異常なペースだ。
「本社に頼んで大きいサイズの服と下着、送ってもらおうか? サイズ教えてくれない? 俺が計ってもいいけど」
「…あなたには関係ないでしょう! そんな事より…」
顔を紅潮させて美紗緒が怒鳴るが、それを邪魔するように特大の腹の虫が鳴った。
「アハハ、豪快だね〜 美紗緒ちゃん。OK、食事にしよう」
美紗緒はいたたまれなくなってすごすごと自室に戻り、昼食に冷凍のピザ(Lサイズ)を3枚ほど食べた。
1月。
スナック菓子に、大量の食料を抱えて美紗緒が研究所にやって来た。
「おいおい、もう昼だよ〜 美紗緒ちゃん」
「…ね、寝坊したんです。えーと、それより開発はどうなりました?」
これは嘘だ。美紗緒は最近は大抵自室にこもり、食料を漁っている。
研究所に顔を出すのも、食料庫に食料を回収に行くついでになりつつあった。
今日遅れたのも、時間を忘れて常人の1日分はあろうかという朝食を食べていたからである。
「順調だよぅ。その服似合ってるね〜 かわいいなぁ〜」
美紗緒が着ているのは木崎が取り寄せた洋服だった。
あれから程なくあのスウェットも入らなくなり、裸でいるわけにもいかないので渋々届いたこれを着ている。
届いた服はどれも冗談のように大きかったが、着てみると意外にぴったりで、美紗緒を大きく落胆させた。
しかしそれ以上に、その洋服や下着の趣味は美紗緒にとっては屈辱的だった。
少女漫画のようなフリルとレース、リボンのついた巨大なワンピース。
太い体が丸見えになる時期外れのキャミソール、ホットパンツやミニスカート。
下着はやたらとセクシーなデザインだが、もちろん巨大サイズだ。
どれも今の自分の体型にとっては最悪の組み合わせだった。
(こんな恥ずかしい服、着れるわけないじゃない…)
と思ったが背に腹はかえられない。
今日着ているのはジャンボサイズのピンクのオーバーオールで、その姿はまぎれもなく「豚」を思わせる。
しかしこのジャンボサイズですら最近の体重増加には追いつけないのか、すでに肩のベルトは肉に食い込み、腰のあたりは張り裂けそうだ。
(これもきつくなってきてる… 博士に大きいサイズ頼もうかしら… でもあの洋服の趣味はなぁ… 帰ったら体重かなり落とさなきゃ社の笑い者だわ)
美紗緒にとって唯一の救いは自分が太りだした事で、木崎のやる気が出たのか新薬の開発が順調で、なんとか期日に間に合いそうな事だった。
「それでは開発、頑張ってくださいね。モグモグ、今日は失礼します」
スナック菓子を食べ切ると、重い体を引きずりながら、大量の食料を両手に抱えて美紗緒は帰った。
もっとも、翌朝にはこの食料は全て彼女の胃袋の中だが…
2月。
期日のずいぶん前に、新薬は完成した。
「かわいい美紗緒ちゃんのお願いだからねぇ〜、俺頑張ったよ〜」
「お疲れ様です、博士」
美紗緒はというと、その後ダイエットを決意したが食欲に勝てず、体重もとうに3桁を突破した。
先月着ていた洋服は既に窮屈になり、結局また木崎に取り寄せてもらった。
今度の洋服は伸び縮みする素材の物が多く、今着ている5Lのジャージはまだ少し余裕がある。
俗に言う「芋ジャージ」だが、もはや美紗緒は服のデザインは気にならず、サイズが合えばいいと思うようになっていた。食欲は相変わらずで、今も食べ物が手放せず、片手にはフライドチキンが8本入ったバケツカップを持っている。
(これでやっと本社に帰れるわ。大体この島がいけないのよ… 食べることくらいしか楽しみが無いから、私もこんなに太っちゃったし… 帰ったらすぐ休暇を取って脂肪吸引でもしないと…)
そんな事を考えながら、チキンをほおばる美紗緒。顔は汗と脂にまみれ、半年で外見は別人のように変わっていた。おそらく以前の彼女の姿を知る者もこの異常な食欲の肉の塊があの美しかった彼女とは、とても信じないだろう。
(フ〜、おいしかった。それにしてもこの部屋暑いわね…)
部屋には軽く暖房が入っていたが、もちろん暑いのは彼女が太り過ぎたせいである。
チキンの食べかすをしゃぶりながら、肩にかけたタオルで汗を拭う。
「しかし美紗緒ちゃんは俺好みの美人になったね〜。1週間後に帰るのかぁ〜、このままこの島に残ってほしいくらいだよ」
「また遊びにきますよ博士。ふぅ、それでは帰る準備がありますから、新薬は持って行きますね。では失礼します。どっこいしょ」
(冗談じゃない、こんな変人の処に2度と来るもんか)
重い体をゆっくり持ち上げ、研究所を出る美紗緒。
帰りにもちろん食料庫に寄り、たっぷりと食料を自室に運んだ。
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