792氏その8
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殺風景な部屋にうずくまった女性。
名前は綾之沢彩香(あやのざわさやか)。
彼女はかれこれ2日間、この部屋で水だけで過ごしている。
何故彼女がそんな異常な事態に陥っているか?
それにはもちろん理由がある。
その説明の為に、少し時間を遡って見る事にしよう…
長い黒髪に白い肌、優雅な物腰に溢れる気品。
そして何より美しい顔に均整のとれたプロポーション。
更には名家として有名な綾之沢家の娘。
彼女は世の女性が望むものを、生まれながらにしてほとんど持っている。
趣味のピアノやバイオリンも一流の腕前で、頭脳明晰でコネなど使わずとも一流の学校に入学、これから輝かしい将来が待っている事は、誰の目から見ても明らかだった。
しかし、そんな恵まれた環境とは似つかわしくない程に、高級車の後部座席に座る今の彼女の表情は強張っている。これから自分はどうなってしまうのだろう、という不安の為だ。
自分は… 買われた。
投資の失敗で莫大な負債を抱えた綾之沢グループ。
このままでは一家離散もやむなし、という状況で、救いの手を差し伸べた黒崎家…
日本有数の富を持つグループ企業。
その条件が「娘をよこす事、以降の詮索は無用」というものだった。
本心では嫌でたまらなかったが、一族の為、グループで働く社員やその家族の為…
綾之沢の娘として覚悟を決めた。
自分ひとりの犠牲で済むのなら… と、人身御供になったのである。
ただし、覚悟を決めたとはいえ、もちろん不安は募る。
「以降の詮索は無用」と言っている以上、まともな待遇は望めないだろう。
…一生を下女として過ごせと言われるのか?
…それとも、何かの実験のモルモットにされる?
…まさか、誰かの慰みものや玩具にさせられてしまうのか?
ぐるぐると、頭の中に恐ろしい妄想が回っていく。
やがて車は郊外の屋敷に止まり、そのまま屋敷の中に入るよう黒服の男に促される。
案内されるまま応接間に入ると、若い男がソファーに腰掛けており、その後ろには
見るからに有能そうな眼鏡を掛けたスーツ姿の女性が立っていた。
「やぁ、はじめまして。僕は黒崎学、後ろに立ってるのは三田村さん。よろしくね」
屈託の無い笑顔で話しかけてくる学に戸惑ったが、黒崎という苗字である以上、彼が自分の運命を握っているのだろう、と彩香は直感した。
「…綾之沢彩香と申します。はじめまして」
こんな状況だというのに、身体に染み付いたいつもの調子で、礼儀正しく自己紹介する「お嬢様」の自分に我ながら呆れつつ、勧められるままに自分もソファーに腰掛ける。
「さすがお嬢様だね、立ち振る舞いとか… 漂う気品が違う。さすが由緒正しい名門、綾之沢家の娘さんだ」
「…今となっては皮肉にしか聞こえませんわ。どうぞ煮るなり焼くなり… お好きになさって下さい」
かつての名家も、自分という犠牲が無ければ今頃…
そう思うと少し自暴自棄になりつつ、彩香はうつむいてそう答えた。
「そんな怖がらないでよ。事が済めば、家にも帰れるようにしてあげるから」
「えっ!?」
さも当然のようにさらりと言った学の言葉に、彩香は顔を上げる。
今までの自分を張り詰めていた緊張や不安は何だったのだろう。
絶望しかなかった胸の内に、光が射し込んだ気がした。
「そ、それでは、私は何をしたらいいのでしょうか?」
それなら、一刻も早く家に帰り、元の生活に戻りたい… そう思うと、自然と声も弾む。
だが次の瞬間、学から発せられた思いがけない台詞。
「なーに、ちょっと太ってもらうだけさ」
予想外の言葉に、彩香の頭の中は真っ白になった。
「ど、どういう事ですの? そんな太るって…!?」
自分の理解の範疇を超えた学の言葉に、当然ながら彩香は混乱する。
「少し丸っこくなってもらうだけだから。…例の部屋にお連れして」
そう学が黒服に命令すると、そのまま彩香は取り押さえられ、ソファーから無理矢理立たされる。
「も、もう少し説明してくださいませ! …ちょ、ちょっと離してくださいっ!」
か弱い女性が屈強な男の力にかなうはずもなく、彩香は抵抗むなしく部屋の外に連れて行かれてしまった。
部屋の外から聞こえる彩香の声もやがて聞こえなくなり… 部屋は静寂に包まれた。
「さーて、ここからどうなるかねぇ。あの娘も気の毒に」
相変わらずの軽い口調で、学は後ろの女性に問いかける。
「全くです。同じ女性として、これから彼女に起こる事を思うと… ぞっとします」
そう答えると、三田村も眉をひそめるのだった。
黒服に連れられた彩香は屋敷の奥の部屋に入れられた。
「ま、待って! 私の話を聞いて下さいっ!」
もう一度先程の部屋に戻り、自分の置かれている立場や、これからどうなってしまうかなどを少しでも聞きたい。心底からそう思う彩香だったが無情にも扉の鍵は外から閉められ、部屋に閉じ込められてしまう。
「開けて! …お願いです!」
分厚い扉をどんどんと叩き続けるが、何分経っても音沙汰は無い。
自分も知っている事だが、こういう上流家庭に仕える黒服は仕事に私情は一切挟まないものだ。
その証拠に、自分がここに来るまでどれだけ泣き喚いても、淡々と部屋まで腕づくで連れて来られた。
いくら騒いでも無駄… 扉の前にへたりこんだ彩香は大きなため息をつく。
泣き喚き、騒いだ事で幾分か気分も落ち着いた気がする。
とりあえず、部屋からは出られそうにない…
そう理解すると、学の言っていた事が途端に気になり始めた。
…太らせるって、一体どういう事なの?
彩香の知る限りの一般的な常識ではまずありえない。
まだ、あの学という男の性欲のはけ口にでも使われる方が(決してなりたくはないが)
常識的には理解できるというものだ。
彼はよっぽど特殊な性癖を持っているのだろうか。
「事が済めば」と言っていたが、いったいどこまで太らされるのだろう…
一瞬だけ光明が射したかに思われた胸の内は、再び不安に包まれる。
ざっと入れられた部屋を見渡すと、なかなか広く、どこか殺風景で無機質な感じがする。
扉は厳重にロックされており、窓も無い部屋…
部屋にはベッドやテレビ、水道、トイレやシャワーなどが設置されており、生活する上で必要なものは一見揃っているように見える。
ある一つの物を除いてだが。
…この部屋には、冷蔵庫が無い。
太らせると言っていた以上、これから山ほどの料理が運ばれてくるのだろうか?
自分なりに節度を持って食べれば、そうそう太る事もないだろう。
それとも、無理矢理に食べさせられてしまうのだろうか?
そう不安に思いつつ、時間は経過し、夕食どきを迎えた。
しかし、予想に反していくら待てども食事が運ばれてくる事はなかった。
何度も外に対して連絡を試みたが、まったくの徒労に終わり、何とか水道の水で飢えを凌ぐ事しか彩香にはできなかった。
明日の朝には朝食が運ばれてくるはずだ… と信じながら、はじめての床に就く。
これまで緊張していた疲れが出たのか、思いのほかすんなりと眠る事ができた。
だが、翌朝には朝食が出されるという期待も、あえなく打ち砕かれた。
目覚めても、一向に食事が運ばれてくる様子は無い。
丸1日が過ぎる頃には、胃袋が悲鳴を上げ、空腹の余りキリキリと痛む。
水ばかりをがぶ飲みし、トイレにしょっちゅう行く羽目になる。
夜も眠れず、ぼんやりとしたままで2日目の朝を迎えた。
「お腹空いた…」
ベッドに力なく横たわる彩香には、もう起き上がる気力も残されていなかった。
もう2日も何も食べていない、水だけの生活…
あの男は太らせると言っていたのに、これじゃ逆にガリガリに痩せ細って、飢え死にしてしまう。
意識も朦朧としつつ、そんな事を考える。
(私、このまま死んじゃうのかな…)
そんな時、部屋の外で物音がした。
彩香がうつろな視線を扉に向けると、黒服の男が扉を開けている。
(これは現実…? それとも幻覚…?)
黒服は配膳台を部屋に運び入れると、テーブルの上に彩香が待ちわびた物を置いた。
2日ぶりに見る、食べ物。
白い湯気とともに美味しそうな匂いをいっぱいに醸し出すラーメン。
まだ鉄板が熱いのか、じゅうじゅうと肉の焼ける音がするステーキ。
みずみずしい鮮やかな色彩に盛り付けられたサラダ。
山盛りに盛られたきらきらと輝く御飯…
どれも、この2日間待ちわびた、夢にまで見たものだ。
黒服は食事を置くとすぐに部屋から出て行ってしまった。
それらが目に飛び込み、鼻に匂いが流れ込むと、ぐったりしていた彩香の身体にみるみる活力を与える。
幻覚なんかじゃない。
ふらつく身体をベッドから起こし、震える手で食事を口に運ぶ。
…こんなに美味しいなんて。
次の瞬間には、口いっぱいに食べ物を頬張っていた。
普段なら、そんな下品なみっともない行為、絶対にしないはずだが…
良家の令嬢として生まれ何不自由なく育った彼女にとって、これほどまでに食欲に己を支配されるなど、当然ながら初めての事。
たちまち身につけていた衣服や顔は跳ね返ったソースやスープでべたべたになり、まるで幼児のそれのように無残に汚くなっていく。
「…さすがに食い付きが違いますね」
モニターを見ながら、三田村がつぶやく。彩香は気づいていないが、部屋の様子は巧妙に仕掛けられたカメラによって筒抜けで、その様子はこのモニター室に逐一送られている。
「OK、それじゃ二ヶ月… いや、三ヶ月はこんなペースで食事を与えてくれ」
学はノートPCで株価の情報をチェックしながら、三田村に指示を出す。
「了解しました。ですが、よろしいのですか? たっぷりと食事をどんどん与えた方が、手っ取り早いのでは」
「焦る事はないよ。今はまだ下地作りの段階だ… 知ってる? 身体ってのは不思議なものでね。飢餓状態になる事によって栄養を身体に取り込む機能が格段にアップするそうだ。つまり、断食なんかの無理なダイエットは逆効果になりやすい。それを意図的に起こしてやれば」
「…リバウンド、という訳ですね。おまけに太りやすい体質になる… 私も肝に銘じておきます」
「ハハ、三田村さんはダイエットなんて必要ないでしょ?まぁ、後はよろしく頼むよ。僕も何かと忙しいから」
モニターには自分のこれからの運命を決められているとはつゆ知らず、目の前の食事を幸せそうに貪り食う彩香の姿が映し出されていた。
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