334氏その8
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どうしてこんなことになってしまったんだろう
私は文庫本の活字を眺めながら、今まで幾度となくしてきた自問を繰り返す。
場所は大学の講義室。次の講義が始まるまでの間、私は文庫本を取り出して、
読んでいる「ふり」をしている。
実際には、私の意識は周りで楽しそうに喋っている学友達に向けられている。
彼らの話題――今度の休日の予定や合コンの段取りなど――に耳をそばだてながら、
彼らが私に話しかけてくれるのを待っているのである。
そう、いわゆる私はボッチの大学一年生――とても認めたくない残酷な現実。
高校の時はリア充だった。
強豪のソフトボール部のエースで四番。
学校中の男子から「かわいい」と評判で、告白も幾度となくされた。
私は彼らの中から一番イケメンな男子と付き合い、華やかな高校生活を満喫していた。
人生の歯車が狂い始めたのはいつからだったろう。
それはおそらく――大学受験の日に寝坊して浪人してしまった時なのだろう。
前日に深夜まで勉強していたせいで、起きれば試験の時間はとっくに過ぎていた。
私は泣く泣く予備校で浪人生活をすることに決めた。
浪人一年目は絶対に合格しようと寝食を忘れて勉強した――だが、志望校には一歩届かなかった。
浪人ニ年目は一ランク下の志望校に変え、一日18時間勉強した――だが、
またもや受験当日に寝坊。
浪人三年目になると、ほとんど家から出ずに半ば惰性で自室で勉強ばかりしていた。
努力の甲斐あってなんとか今の大学に合格できたが、三年間で私が失ったものは大きかった。
勉強のストレスで過食症になってしまい、加えて極度の運動不足が原因で、
激太りしてしまったのだ。
合格発表の翌日、久し振りに高校時代に着ていた服を着てみるとボタンがきつかった。
仕方がないので、大学入学後に高校のクラスメートに当時の私服を譲ってもらった。
彼女はぽっちゃり体形でクラスのいじられキャラだったのだが、
今では綺麗に痩せて華麗に大学デビューを果たしている、と風の噂で聞いた。
反対に、今の私は見る影もなく落ちこぼれ、当時の彼女の服がぴったり合うほどの
肥満体をさらしている――高校の時は私の方が彼女より10kgは痩せていたのに。
高校の時につきあっていた彼氏は、そんな私を見て笑いをこらえながら別れ話を切り出した。
自分に自信をなくしていた私が彼を引きとめられるはずもなく、私達は別れた。
そして浪人生活の悪影響の極め付きは、家族以外の人間と接する機会が極短に限られていたので
人と話すことが不得手になってしまったことだ。
新入生歓迎コンパでも私は自己紹介の時に盛大に噛んでしまい、場を白けさせてしまった。
その後、周囲が盛り上がる中、隅の席で一人寂しくカシスオレンジを舐めながら
飲むはめになったのは言うまでもない。
というわけで、私――小宮真琴はクラスに上手くとけこめずに、
こうして文庫本とにらめっこするはめになっていたのだった。
***
「おい、あの子も誘わない? 同じ学部だしさ」
ふと文庫本から目を上げると、前方で机に腰掛けた同じ学部の男子(パーマをかけた髪の
かなりのイケメン)が、私の方を窺いながら隣にいた男子(こちらもかなりのイケメン)と
合コンの打ち合わせをしていた。
「あー、あの子ね……合コンとか苦手そうだしな……」
彼の友達はひっそりと声を落として、パーマ髪に返事した。
こっちには丸聞こえなんだけど。
「だよな、新入生歓迎コンパの時も盛大にテンパってたし……誘うのはかわいそうかな?」
いやいや、ぜひ誘ってください、と私は心の中で懇願する。
「おい、こっち見てるぜ。もしかして興味あるのかも……誘ってみるか」
うわわ、こっち来たぁ……どうしよう、と心の中で慌てる。
顔を赤くする私に、パーマ髪がさわやかな笑顔を向けた。
「ねえ、今度の5対5の合コン、人が足りないんだけど……良かったら、どう?」
「え、え!? ……ええっと……」
「興味があれば……だけど」
「あ、その……あのぅ……」
「だめ……かな……?」
「あわ、あうう……」
「……どう」
「……あぅ」
行きたいです――その一言さえ言うことができればいいのだけれど、言葉が喉につっかえる。
高校の時は、異性からの急な問いかけにもすらすらと気の利いた冗談さえ言えたのだけど。
今はこのザマである。
俯いて口をもごもごさせる私を見かねたのか、もう一人の男子が近付いてきた。
「おい、恥ずかしがってるじゃないか。無理強いしたらかわいそうだろ」
「あ、ああ……そうだな」
と、パーマ髪は残念そうにこちらを見た。
「ごめん、無理に誘って悪かったな」
立ち去っていく彼の後ろ姿を見ながら、私は激しく後悔した。
はあ、同じクラスの人と仲良くなるチャンスを逃しちゃったなぁ。
***
講義中はお腹が鳴って仕方がなかった。きちんと朝ごはんを食べたはずなのに。
理由は分かっている。浪人時代の過食で胃袋が大きくなったせいだ。
高校でソフトボールをしていた時よりも食べている。
今はこれといって激しい運動をしていないから、確実に体に脂肪が蓄えられているだろう。
それでも湧きあがる食欲を抑えきれない。恥ずかしい限りである。
定時より早めに講義が終わったのでラッキーだった。
そそくさと席を立ち、教室を離れる。
コンクリート造りの廊下を渡り、講義棟に隣接した学生食堂に向かう。
次は待ちに待った昼休みなのだ。
まだ他の講義が終わっていないのか、学生食堂には人はまばらだった。
一目散にカウンターに向かい、給仕のおばちゃんに大声で注文する。
「カツ丼とカレーライス、どっちも大盛りで!」
「はいはい、いつものやつね」
おばちゃんは快活に笑いながら炊飯器からご飯をよそおってくれた。
入学してから早1カ月、この食堂で毎日カツ丼とカレーライスを頼むうちに、
おばちゃんにすっかり顔を覚えられてしまい、今では学内で数少ない、
気楽に話せる人物の一人である。
「ほら、サービスでカツを一切れ多くしてあげたよ。
その恰幅のいい体じゃ一杯食べないと勉強は頑張れないだろ」
「あ……ありがとう」
毎度のことながら少しデリカシーのないおばちゃんの言葉に苦笑いしつつ、窓際の席に座る。
私だって太ったこと、気にしてるのにな。
お腹の肉をつまみながらしばし悩む。
気を取り直して、割り箸を割る。
カツ丼に取りかかろうとした時、よく響く声がした。
「あれ? もしかして小宮真琴?」
目の前に現れたのは、眉を整えた優男。
「あ、はい。そうですけど」
「やっぱり! 懐かしいなあ! ずいぶん雰囲気が変わったから分からなかったよ」
「あのー、どちら様でしょう?」
いぶかしげな表情をすると、優男はにやりと笑った。
「俺もだいぶ変わったから分からなかったかな。俺だよ、坂岸健太」
「あ!」
彼は高校時代に私が告白を断った男子達の一人だった。
坂岸健太――そいつは高校時代に私に告白してきたその他大勢の中で、特に印象に残っている。
おどおどした目つき、冴えない風貌をしていたきもい奴。そんな感じだった。
しかし、今目の前にいる男は、当時の坂岸とは似ても似つかない男。
化粧品のCMに出てくる男優のようなうすっぺらな爽やかさを身にまとっている。
「高校の時はお世話になったな。
お前に振られてから見返してやろうと大学デビューを成し遂げたんだぜ」
と、彼はにんまりと笑った。
「それで――小宮は今どうしているの?」
「今年大学に入学したのよ。今、大学一年生」
よりによって嫌いだったこいつに今の状況を説明しなくちゃいけないなんて……。
「ふ〜ん、じゃあ3浪してやっと入学できたんだね。かつての優等生も落ちぶれたもんだ」
彼は視線を落とし、私の胸部や腹部をなめるように見回した。
「体もかなり鈍ってるみたいだし……ふふふ」
「なに? 用がないなら向こうへ行ってくれない」
「用があるからここへきたんだよ」
真綿で首を絞めるように回りくどい言い方をする。
きっと、落ちぶれた私をいたぶって振られた鬱憤を晴らしているに違いない。陰湿な奴。
「用ってなによ?」
「実は俺、軟式野球サークルの部長なんだけどさ、
部員が辞めてメンバーが一人足りなくなったんだ。
小宮、高校の時ソフトボールで鳴らしてたろ、入部してくれないかな?」
「そんな今更、運動なんて……体力落ちてるし」
「入部しないなら、SNSで高校の時のクラスメートに現在の小宮の写真を公開するけど。
かつての小宮ファンが現在の小宮の体形を見たらどう思うかな?」
「この……卑怯者」
「何とでも言うがいいさ。俺には振られた復讐ができてせいせいするし」
「ぐ……」
と言ったものの、高校の時のクラスメートに今の姿を見られるのはあまりにも恥ずかしい。
私はしぶしぶ首を縦に振った。
「分かったわよ。入部してあげる」
「OK。練習は明日の16時、大学の球場で行うから。待ってるぜ」
坂岸は席を立った。
「はあ……よりによって、大学で始めて関わる奴があいつなんて……」
私は陰鬱な気分になって、目頭を押さえた。
***
「くくく、あいつが鈍った体でどこまでついてこられるか、明日が楽しみだぜ」
食堂から出た後、坂岸は顔がほころんでくるのを止めることができなかった。
ぱっと見ただけで今の小宮は高校の時よりも10kgは太っている。
二重になりつつある顎。ぽっこりと出た腹。丸太のような太もも。
筋力も相当に落ちているに違いない。
「俺のサークルは大学内に数多くある軟式野球サークルの中でもかなりの実力なんだよな」
当然、部員は野球経験者ばかりである。高校時代に全国大会に出場した猛者もいる。
練習メニューも正規の部活と引けはとらない。
「そんな環境下で、落ちぶれた元エース様がどこまで活躍できるか見ものだな」
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翌日。
私は約束した時間に球場に来た。
サークルが使っている球場だからぼろっちい球場だと思っていたけれど、
草は良く手入れされていてなかなか上等な施設だ。
「おー、こっちこっち」
フェンスの扉を開けて球場内に入ると、ベンチに座っていた坂岸で手招きした。
ベンチの中には他に十数人ほどいるようだ。
「逃げずにちゃんと来たか。感心、感心」
「ふん、あんたなんかにびびってたら元エースの名折れよ」
腰に手を当てて坂岸に舌を出していると、ベンチから背の高い男が出てきて坂岸に話しかけた。
「元エースってことは……そいつだな、お前が言ってた今度入る新入部員ってのは」
「そうだよ権藤。こいつ、今はこんなデブだけど、かつての強豪校の主力だったんだぜ」
坂岸はおどけたように笑った。その声を聞いてベンチからさらに部員が集まってきた。
「どれどれ……うわ、デブじゃん。本当に野球やってたの?」
「あのウエストでバッティングがきちんと出来るのかねぇ……」
「足遅そう……」
ひそひそと好き勝手なことを言いあう部員達。
「うるさいわね。そこまで言うなら実力を見せてあげようじゃない!」
腐っても元エース。私は地面に転がっていたバットを手に取り、ヘルメットを被った。
「おお、このおデブちゃんやる気だぜ」
「それじゃ、俺が実力を試してやる」
権藤と呼ばれた部員がピッチャーマウンドに登る。
「さあ、いつでも大丈夫よ」
私はバッターボックスでバットを構えた。
私の合図に権藤はこくんとうなずき、腕を振りかぶる。
大丈夫、身体能力は落ちているかもしれないけれど、
そこらへんのお遊びサークルに負けるほど駄目にはなっていない。
飛んでくるボールに合わせて思いっきりバットを振った――つもりだったが。
盛大に空振りをしてしまった。
「おいおい、振り遅れすぎだろ」
腹を抱えて笑う坂岸。
そんな……嘘だ。ガクリとへたれこむ私。
どこからか聞こえる、「使えないな」の声の嵐。
***
いやー、せいせいしたぜ。小宮のやつ、あの後泣きながら球場を出て行ってやんの。
みっともないったらなかったぜ。ま、これも高校の時俺を振った罰かな。
しかし、小宮が大学にこなくなってからもう1カ月か……ま、俺にはどうでもいいことだけど。
俺としてはあいつに復讐できたからせいせいしたぜ。
そういやこの間駅前ですげえデブ女みかけたな。体重100kgはありそうだったぜ。
地面につきそうな腹肉をもちあげてひぃひぃ言いながら歩いてやがんの。爆笑。
ん……思い返してみるとあの女、小宮に似てた気がするけど……まさか、な。
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