肥満ハザード
[9月4日・朝]
今日は新学期初めての土曜日である。
今日ばかりは授業も休み。
いつもは実家に戻る生徒もいるのだが、今週はそうはいかない。
しかし、仲のよい友人といれば、楽しい週末となるはずである。
いや、なるはずだった…
―中等部寮舎、香織とみどりの部屋
「香織、朝だよ。ほら起きて。」
「ん…おはよ…みどり…」
香織が枕にうずめていた顔を上げて、みどりのほうを向く。
「…!! 香織!? あんた顔が!!」
「え…? …顔? …! …まさか!!」
香織ははっとして、手鏡を覗く。
そこに映っていたのは、昨日よりもさらにふたまわりほど大きくなった自分の―別人のようだが―顔だった。
「…やだ…嘘…なによ、これぇ…」
香織は「それ」が自分の顔だと信じられなかった。
「むくみ」がひどくなっている。
どちらかといえば逆三角形型でほっそりめだった顔は、いまは丸々、ムチムチとしている。
頬がパンパンに腫れ上がっている。
その頬の隆起は、視界にうっすらと入り込むほどだ。
香織は厚い頬を指で押しあげてみる、すると鏡の中の顔も、指が埋まりこみ変形する。
間違いなく自分の顔である。
よく見てみると、顎の下から、もうひとつの肌色の塊が覗いているではないか。
それはつまり…
「…こんな、むくんで…ひどい…水分をとりすぎたから?」
顔の変貌を水分によるむくみだと信じ込みたい香織は、ここ数日、やたら喉が渇いて水ばかり飲んでいたことを思い出した。
「…もう…お水飲まない…」
「あっ、香織、むくんだときは水をたくさん飲んだほうがいいんだよ。老廃物が流れるから。」
「え? そうなの? わかった…たくさん飲むよ…」
「そうしな。あ〜お腹空いた。私は先に食堂に行ってるね。あ〜、お腹空いて死にそう…」
みどりは香織にアドバイスをすると、さっさと食堂に行ってしまった。
部屋にひとり残された香織は、とりあえず朝の支度をしようと、着替えを持って洗面所に行った。
寝汗をたっぷり吸った寝巻きの上を脱ぐ、そして、ふと、鏡を見る。
「きゃあ!」
香織は叫んだ。
当然自分が映っているはずの鏡に、別人が映っていたのだ。
びっくりして反対側の壁によりかかるようにして後ずさりする香織だが、鏡の中の人物も、鏡から離れるように後ずさりをする。
「…あ…や…何? …これ、私…?」
鏡の中の人物はもちろん香織自身である、しかし「見慣れた自分」ではない、鏡の中の香織は、一言でいえば、「太って」いる。
「嘘…なんで? …なんで私の体、いつの間に?…」
いたって標準的だったはずの自分の体が、ふっくらと厚さも太さも、ふたまわりくらい増していた。
お腹だけを見ると、みまわりくらいボテッと膨らんでいた。
「いや…いや…嘘…いやぁ…」
パニックになる香織。論理的思考が組み立てられない。
むくみ? 違う、こんなむくみかたはありえない、この体は、言うなれば、いや、間違いなく…
「…違う、嘘よ…」
混乱しながら、寝巻きの下も脱いでみる。
白く、太いふたつの物体が鏡に映った。
横に横に伸びた腰に、付け根からふくらはぎまで、ずどんと同じ太さの脚が生えている。
変わり果てた下半身を確認すると、鏡のなかの人物はぷるぷると震えだした。
「…あ…あ…あ…や…嘘…いやあああ…」
ぐううぅうぅぅぅぅ〜〜〜…
「…! …あ…お腹、空いた…朝ご飯食べなきゃ…あれ? …何考えてたんだっけ、私? …そうだ…早く着替えて…食堂に…水だ! …水もいっぱい…水飲まなきゃ…」
頭の混乱が最高点に達したとき、香織の胃が大きな音をあげた。
すると、香織の頭は「空腹」一色に支配され、思考は洗面所に来る前に巻き戻された。
そして、支度を済ませ、いそいそと食堂に向かった、まるで本能のように…
[9月4日・午前10時]
―中等部寮舎、学生食堂
「…んああ…おいし…ふはっ…」
くちゃくちゃ…ガツガツガツ…もぎゅもぎゅ…
「…ふうぅっ…ぷは……はぁはぁ…」
バクバク…ゴキュ…ン…ムシュムシャ
「…っぱぁ…ん…おかわり…」
「な…なんだよ…これは……」
昨日生徒の食欲の増加に違和感を覚えた祐は、生徒の様子を見ようと、寮舎にやってきた。
学生食堂を訪れ、その有様に愕然とする祐。
もう日の高い午前10時、いつもなら生徒の朝食はとっくに終わっているはずである。
しかし今日は、まるで今が朝食のピークであるかのように、食堂は生徒でひしめきあっている。
席は満席、配膳台には長蛇の列、席がなく、床にお膳を置いて食事をとる生徒もいる。
どの生徒も食事に夢中で、無駄口を叩かずにかきこんでいる。
「ちゅ…中等部も…やっぱり、何か変だ。」
実は祐はすでに高等部の寮舎に行っていた。
そこの食堂も同じような有様だったので、今の祐の驚きは大きい。
祐はひとりの生徒に声をかけてみた。
「あのさ…きみ、まだ食べてるの?」
「(ぐちゃぐちゃ…)…あ…たすく先生…うん…今日は授業ないし…」
「そうだけどさ……食べ始めるのが遅かったのかな? 何時に食べ始めたの?」
「ううん…7時くらいから…お腹空いて目が覚めちゃってさ…それから、ずっと…」
「え…7時からずっと食べてる…の?」
「うん…いくら食べてもお腹いっぱいにならないんだよね…(ぐび、ぐび、ぐび…)…ぷは…ごめん、先生、おかわりしてくるね。」
そう言って生徒は立ち上がり、スカートのウエストを下にずらしながら配膳台の列に並びに行ってしまった。
「………食いすぎだろ…」
「あ〜、たすく先生だ〜」
祐の背から、ほんわかとした柔らかい声が聞こえてきた。
祐はその声に聞き覚えがあった。
中等部2年、水島香苗(みずしまかなえ)だ。
香苗はほそっちょろい華奢な女の子で、体も弱い。
貧血や食欲不振などを起こしがちで、よく祐のお世話になる生徒である。
「おお、その声は…水し…水島…水島さん?」
「…そうだよ…どうしたの?先生?」
祐は声の方向に振り返りながら、香苗に声をかけた。
だが、振り返って視界に入った香苗を見て、思わず祐は「?」と語尾を上げてしまった。
「ん?…何? 先生?」
「い、いや…水島さん、変わったね…」
「え〜、そう?」
繰り返すが、水島香苗は、ほそっちょろい、華奢な体型の少女である。
少なくとも祐の記憶の中の香苗はそうだ。
しかし、今、祐の目の前にいる少女は、祐の記憶に合致しない。
そこにいたのは、ふっくら、ぽっちゃりとした栄養状態のよさそうな少女である。
軽い肥満体型といえるくらいかも知れない…
切れ長の目と甘ったるい声は確かに記憶の中の香苗と同じなのだが、体型はまるで違う。
心配してしまうくらい、白く透明な感じだった顔は、今は頬がぷくぷくっと膨らみ、桃色に染まっている。
小学生と変わらないくらいの、発育が遅く起伏のなかった胸には、どっかから飛んできたのか、すっかり大人らしい立派な膨らみがあった。
流木みたいにひょろひょろしていた腕は、ぷっくりと柔らかい肉で覆われているようだ。
香苗は内股をこする合わせる癖があるのだが、今は太ももに肉がつき、こすり合わせると肉がプリプリ震える。
「…(え? 夏太り? …いや、始業式の日は痩せてたぞ…) あ…そうだ、食欲は、どう?」
「あ〜、それがね、夏休み中は夏バテで何も食べれなかったんだけど、新学期になってから食べれるようになって…」
香苗は食事をお膳で運ぶ途中だったらしい。
お膳にのせられた食事の量に祐は驚いた。
かつての香苗が食べれる量の4、5倍は盛りつけてある。
「…そ、そうみたい、だね…よかっ…よかったね…よかった? よかったよね?」
つい疑問系で言ってしまう祐。
「…? …うん? いいんじゃないですか? …私、こんなに食べるのが楽しいなんて知らなかったです。でも私まだ友達と比べても小食で…もっとしっかり食べれるように…」
「いいい、いやっ…そのままでいいと思うぞ? その…なんだ、いきなり食べる量を増やすと…胃に悪いし…な? そ、それじゃ!」
祐は困惑し、逃げる様に食堂を後にした。
早歩きで、カツカツと渡り廊下を渡る。
「(なんか…様子がおかしい、やばいことが起こってる…やっぱり、花井先生に相談をしよう…!)」
祐は、学園に異常事態が起こっていることを察知し、もうひとりの校医、「花井清美(はないきよみ)」に相談しようと、校医室へ向かった。
―校医室
「失礼します、花井先生。ちょっとお話が…って、うわ…」
「あ、大口先生…(もぐもぐ)…どうしましたか?」
祐はまたも驚かされた、いつもきちんと整頓されていたはずの花井の部屋に、お菓子の袋やカップ麺の空容器がいくつも床に転がっていたのだ。
祐が入室したとき、花井は左手に大福の箱を抱え、右手で大福を口に運んでいた。
祐は戸惑いながらも、大福を頬張る花井に、本題を切り出した。
「…あ、あの…生徒たちの食欲が…おかしいと思いまして…」
「(もぐもぐ) …ほふおう?(食欲?) …(ゴクン)… ちゃんと食べているみたいじゃないですか?」
花井は、新しい大福を箱から取り出し、ほいとくわえる。
「いや、その、そうじゃなくて、なんというか…食欲がありすぎで、食べ過ぎだと思うんです。」
「(もぐもぐもぐ) …そうですかぁ? …ん…多く食べる分にはいいじゃないですか。食べるのって楽しいですしね…食欲の秋ってことで…」
「…問題ないと?」
「ええ、地震なんか起こって…食べるのが唯一の楽しみなら、それでいいかと…ああ、おいしい…」
「……は、はぁ…」
ベテランの花井と比べれば、祐はまだ若い校医である。
祐は強く反論できなかった。
それに何より、花井は大福を頬張るのに夢中の様で、祐を半ば相手にしていないようだ。
祐は、これ以上論議しても無駄だと悟り、部屋を後にした。