肥満ハザード
[9月5日・午後]
祐は、新しく「こちら側」に加わった生徒―琴音と美鈴―を保健室にいさせて、学園の見回りに行った。もしかしたら、琴音のような生徒はまだいるかもしれないという期待を胸に抱いていた。
―中等部校舎、中庭
祐は中庭で、蛇口に繋がれたホースを口にくわえ、水を飲んでいる生徒に遭遇した。
この少女は、今の学園の標準より大きく太っている。
そして目には生気がない。
ここの蛇口は、中庭の花壇に水をやるためのものだ。
水こそ同じ地下水だが、本来飲むための蛇口ではない。
しかも、蛇口のある壁際は「ひさし」がついているとはいえ、今日はどしゃぶりなのだ。
こんな日に中庭にでるやつはいない。
水飲み場が生徒でいっぱいなので、「穴場」のここへ水を求めに来たのだろうか。
少女は時折、息継ぎのため口からホースを放し、うわ言のように独り言をつぶやき、また水を飲む、というサイクルを繰り返していた。
「(ゴクゴクゴク…)…ぷはっ…はぁはぁ…むくみが…むくみがとれないよう…」
少女のお尻や股下は、じとっと濡れている。
この娘も昨日の藤崎紗代と同様に、トイレにもいかず何時間もここで水を飲み続けていたのであろう。祐は少女に近づき、水を必死に飲む彼女の肩をつかみ、話しかけた。
「ちょっと、きみ、そんなに飲んだら…」
「…せんせ? …でも…私…むくみが…水を飲まなきゃ…水…水を…」
「いいかい? この水は飲んでは駄目だ!」
祐は少女からホースを取り上げ、蛇口をキュキュッと閉めて水を止めた。
すると、生気のなかった少女の目が、ギラギラとしたものに変わった。
ガツッ!!
「…!?」
少女に背を向け、ホースをまとめていた祐の右のふくらはぎに、鈍い痛みが走る。
祐は痛みで、右膝をついてしまった。
痛みのした箇所を見ようと振り返ると、レンガを掴んだ少女の手が視界に入った。
「返して…」
「……っ!」
少女は、祐が見ていない隙に、近くの壁際に積んである、レンガ(中庭の花壇を造成したものの余りだった)を手に取り、祐のふくらはぎに殴りつけたのだ。
少女は膝をついた体勢から、フラッと立ち上がった。
「!…!?」
「返して、ホース…水飲むの…返して、返して、やあああああ!!」
「〜〜〜!?」
少女は、レンガを持った手を振り回し、暴れだした。
少女とはいえ、祐より重そうな少女が鈍器を持った手を振り回しているのだ、祐は戦慄というものを覚えた。
このままでは頭を割られる、そう思った祐は脚の痛みを堪え、立ち上がった。
ヒョコヒョコとした足取りで、少女の腕の届く範囲から逃れる。
しかし、彼女も距離を詰めようとする!
「うわあああああ! ガエゼエェェ!!!」
ヒュンッ…
バリーーンッ!!
おおよそ人間の言葉とは思えない声の後、ガラスの割れる音が中庭に響く。
意図的に投げたのか、それともすっぽ抜けただけなのかは分からないが、少女の手からレンガが離れ、中庭を臨む窓ガラスに飛び込んだのだ。
レンガは祐の顔のすぐ横を飛んでいった。祐の全身の毛穴がぞわっと開く。
「ふぅ…ふぅ…はっはぁっ…」
レンガを放り投げた少女は、勢い余って横の花壇に倒れこんでいた。
大きな体に、ひょろひょろしたコスモスが押し倒される。
呼吸で荒く上下する体に、祐は声をかける。
「…大丈夫?」
「…ゃ…さない…」
「…へ?」
「…邪魔させない…水飲むの…ジャマサセナイ…」
少女は立ち上がった。
その姿は人間には見えない。
半身には花壇の土がついて汚れている。
それが余計にバケモノらしさを演出していた。
そして、いつのまにか、手にはレンガに代わり、銀色のスコップが逆手に握られていた。
花壇の土に突き刺してあったのを引き抜いたらしい。
ギラリと光るのスコップは、祐の目にはナイフに見えた。
事実、金属製で、先が尖っているので、じゅうぶん凶器になりうる。
「ここは…わたしの水飲み場…ふぅー、ふぅー…帰れ…帰れ…カエレえェっ!!」
少女はスコップを両手で握り振り上げた、祐は生命の危険を感じ、脚の痛みも忘れ、一目散に少女から、そして中庭から逃げた。
「はぁはぁ…あ、あの娘は…ハッ…もう駄目だ…」
少女は祐を追わなかった。
祐がいなくなった中庭で、少女は蛇口のところへ戻り、ホースを口にくわえ、蛇口をひねった。
彼女にとっては蜜のように甘い水が口に飛び込むと、少女は微笑み、またさっきのサイクルに戻った。
―高等部校舎、エントランスホール
祐はフラフラと、高等部校舎まで来ていた。
やっと落ち着きを取り戻した祐は、脚の手当てをしようと保健室に帰ろうとするが、エントランスホールで、驚くべきものを見つけた。
それは、床に広がる血溜まりだった。
祐は、最悪の光景を想像した。
中庭の少女のようになった生徒たちが、食料をとりあって、争いになり、そして…
血溜まりから伸びた血の筋が、階段に伸びていた。
この血の筋の先に、負傷者がいるかもしれない。
祐は用心のため、掃除用具入れから取り出したモップを握り、血の筋を追った。
階段を上り、血の筋は家庭科調理室に続いていた。
家庭科調理室には、人が何人かいるようだ、ジュージューと音がし、肉の焼く匂いがした。
「(まさか! まさか! まさかっ!!)」
最悪中の最悪を想像し、冷たい汗の流れる祐。
意を決し、調理室のドアを開けた。
ガラァッ!
「…あら? 大口先生? どうしたの怖い顔して?」
中には、農業科の女教師がいて、きょとんとした顔で祐を見た。
室内には、他にも生徒がいた。
コンロで肉を焼きつつ、焼いた肉をかじっていた。
しかし祐は油断せず、教師にモップをつきつけ、問いつめる。
「ここで…何を!? 何だ!? 何の肉を焼いているんだ!!」
「…牛ですよ? 農業科の牛を、捌いて食べてるんです。」
「農業科の牛?」
「ええ、なんか生かしておくのはもったいないくらい、おいしそうに見えて。それで、農業科の生徒たちを呼んで解体したんです。生徒にはいい勉強になったと思いますわ。」
祐は、調理台に転がる、まだ調理される前の切り分けられた肉の山を見つけた。
その肉は、紛れもなく牛のもので、祐が想像していたものとは違う。
祐は安心した。
ただ、牛一頭丸ごとバラしてしまうほど、食欲の増大が進んだのかと思うと、安心していいのか分からないが。
祐は、床に座って白い肉をもぐもぐ食べている生徒を見つけた。
その白い肉がどこの肉だか最初は分からなかったが、暫く考えて切り分けた牛の脂肪の塊であると理解した。
「おい、そんなの食べれな…」
「いいんですよ、大口先生。残すと牛さんに申し訳ないでしょう? それより大口先生もどうですか? おいしいですよ?」
「え、いや、私は…それより…」
祐は、とりあえずこの焼肉パーティーを止めようとした。
しかし、農業科教師の肩越しに、心配そうに祐たちを眺める生徒が目に入った。
生徒は、刃渡り30pほどの牛刀を持っていた。
よく見れば室内には、牛の解体に使った物騒な道具がたくさん転がっているではないか。
祐は、中庭での恐怖体験を思い出した。
「それより?」
「いや…なんでも、ないです…」
祐は何も言えず、肩を落として保健室に帰って行った。