肥満化ウィルスにご用心

肥満化ウィルスにご用心

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 10日ほど経った頃、いつものようにミキが中庭に行くと、車椅子姿のユリがいた。
ついに250kgを突破した彼女の体は足に負担をかけ、歩くのが困難になってきたのだ。
心配そうなミキに、何も変わったことはない、とユリが笑顔で答える。

 

「今日はいい天気ですね」
 ミキが空を見上げて言った。
「ほんとね」
 山に囲まれて狭くなった青空を、のんびりと雲が泳いでいく。
その雲を追い越すようにして、飛行機が渡っていった。
「私もあそこで働けてたのかな……」
 ユリがつぶやいた。
「えっ?」
「私が採用されてた会社、○×航空だったの。キャビンアテンダントとしてね」
「……」
「もし病気がなかったら、今頃あそこで活躍できてたのかな……なんてね」
 大きなお腹を震わせて、小さな声でユリが笑った。
「まだですっ! まだ大丈夫です!」
「え?」
「まだ治らないって決まったわけじゃないですよ! これからいい治療法ができるかもしれないじゃないですか。そしたら元の体に戻って、また受けなおせばいいじゃないですか! それからでも遅くは無いと思います!」
 ミキの興奮した声が、中庭に響いた。

「……そうね。そうよね。大切なことを忘れるところだったわ。ありがとう」

 

「ミキさんの夢は何?」
 ユリが聞いた。
「えっ、私の夢? えっと……」
 聞かれて、ミキは困った。短大に入ったのも親の薦めだし、学生生活だって、特に何も考えずにのらりくらり送っていたミキにとって、夢と言える夢がなかったのだ。
「私の夢は……」

 

 少し考えた後、ミキはひらめいて、
「私の夢は、早くこの病気を治して、元の体に戻ることです。その先のことは、治ってから考えます」

 

「ふふっ、いい夢ね。それじゃぁ、お互いの夢に向けて、がんばりましょう」
「はいっ!」

 

 

 ミキは握手の手を差し出した。それをユリが受けようとした瞬間、その手はユリに届かず、苦しそうに胸を掴んだ。
「えっ? ユリさん?」
 ユリの呼吸が荒くなる。顔は真赤に紅潮し、脂汗が流れている。
そのまま、車椅子から前へ倒れこんだ。
「ユリさん? ……ユリさん!」
「っ……!!! うぅ、うぁっ、はぁ、はぁ……んぁ、はぁ、はぁ」
 もだえ苦しむユリ。息も絶え絶えだ。250kg近い巨体がのた打ち回る。
「お腹……おなかがっ! はぁ、はぁ、 は、早く! う、うぁぁぁぁぁぁ……」
「だ、誰かぁ!! 助けてくださいぃ!」
 ミキの叫びに、すぐに医師たちが駆けつけた。状況を見て一瞬で判断した医師が、助手にある装置を持ってこさせる。

 

 助手が持ってきたのは巨大なタンク状のものだった。太くて長いホースが伸びている。
医師は、そのホースの端をユリの口に突っ込み、タンクのスイッチを押した。
「むごっ! んぐっ」
 むさぼるようにユリがホースに吸い付いた。大量の流動食が流し込まれる。
 むぐっ、ゴグ、ゴグ、んぐっ、んぐっ……
 さっきの大暴れが嘘のように大人しくなったユリは、夢中で流動食を飲み込み続けた。

 

 恐れていた、“発作”だった。

 

 ミキはその様子を、泣きながら、震えながらただ見ているしかできなかった。
「ユ……ユリ、さ…ん?」
 ミキの呼びかけに反応もせず、ユリはうつろな目をして、ひたすら飲み続けるのみだった。
 目に見えてユリの巨大腹がさらに膨らみ始めた。よく見ると、腹だけじゃなく、腕も、足も、胸も、顔も、体中全てのパーツが少しずつ膨らんでいくのがわかる。
驚異的なスピードで増殖するウィルスが、驚異的なスピードでユリを太らせているのだ。

 

 医師たちは重機のようなリフトを持ってきて、数人がかりでユリを乗せた。
ホースにしがみついたまま、巨体は運ばれていく。無意識のうちにミキもついて行く。

 

 ユリは、療養所でも最も奥にある別棟に運び込まれた。そこには、今ユリが咥えているようなホースと、タンクが置いてある部屋がいくつも並んでいた。
そのうちのひとつに巨体が運び込まれる。ガラス張りの部屋を、ミキは外から見ていた。

 

 医師が、ユリの体にチューブやら電極やらを手際よくつけていく。
その間も、ユリは夢中で流動食を飲み続けた。
 ゴグ、ゴグ、んぐ、むぐ、んぐ……

 

 ユリの膨張は止まらない。大量の食料が流れこみ続ける腹は風船のようにムクムクと大きくなっていき、体のほかのパーツも、それに付随するスピードでぶくぶくと膨らんでいく。
 機器の中にある、おそらくユリの体重を示すであろう数字が、ぐんぐんと上昇していく。
 320、325、330、335……

 

 着ていた特注サイズのパジャマは完全に破れ飛び、巨大な腹肉が露になった。
ブラジャーも、ホックのところから勢い良くちぎれ飛んだ。ズボンも破れた。
パンツは肉に埋もれ、破れたかどうかすらもわからない。
 んぐ、んぐ、んぐ、むぐ、んぐ……
 370、375、380、385…… 

 

「ユリさん……ひぐっ、ゆりさぁぁん……うぅ…」
 ミキの声は、もはやユリには届かない。うつろな目で、ただただ栄養分に貪りつくだけだった。
「い、いやぁぁぁぁぁあああああああああああ」
 ミキは駆け出した。さっきまで自分と一緒に居た女性に、突然襲い掛かった現実。
 しかも、この診療所にいる限り、誰にでも起こりうる現実。
 いつか、もしかしたら明日にでも自分が辿るかもしれない現実。

 

 ミキには耐えられなかった。

 

 ユリという女性の運命よりも、自分の果てが見えたことがショックだった。

 

 部屋に閉じこもって、1日中泣き続けた。その日の食事には一切、手をつけなかった。

 

 

 

 ユリが正気に戻ることは2度と無かった。
一日中特別治療室で、特別患者用の栄養を飲み続けるだけとなった。
体重が500kgを越えても、600kgを越えても、それは収まることはなかった。

 

 可愛らしさが残っていた体、顔つきも、もはや見る影もなかった。
200kgを越えて美人を保っていた姿も、さすがに600kgを越えるともう、人間とは思えない、ただの肉の塊と化していた。
 牛1頭分は越えてしまいそうな腹肉は、横へ、前へと広がり、投げ出した足は、腹肉の進出によって、足首から先しか見えていない。胸も、腹肉に乗って上下左右に広がり、顔を圧迫している。頬と首周りの肉が増殖し、頭はもはや、髪とチューブの生えた脂肪ボールのようだった。
デロデロのブヨブヨに膨れ上がった体は、とどまることなく栄養分を吸収し続けた。

 

 事の次の日も、ミキは食欲が無かった。
いや、正確に言えば、「食欲はある」のだが、ユリの一件を目の当たりにしてしまい、恐怖心が勝って食べる気になれないのだった。辛うじて栄養源となっている点滴でさえ、今すぐ取り去りたくてしかたなかった。

 

 引っ切り無しに腹の虫が鳴っている。

 

 そうだ。このまま何も食べなければ、ウィルスは餓死するかもしれない。
そうすれば、治るかもしれない。
 そんな考えがミキの頭をよぎった。
「へへっ……もう、何も食べないぞ」

 

 半ば狂ったように、ミキは食事を拒み続けた。出される食事は、こっそりと窓の外へ捨てた。
「この調子、この調子……」

 

 しかし、そんな抵抗にもわずか1日で限りが見え始めた。

 

「うぅ……うぁぁ……」
 深夜、恐ろしいほどの空腹感で、ミキは眠れずにいた。
「頭がおかしくなる……ごはんっ ……ダメダメ! 絶対にだめっ」
などと自分を戒めては我慢する、を繰り返した。が、深夜2時を回ったあたりから、
ミキの精神は限界に達していた。

 

 目の前に、ジューシーな焼きブタが見えた。
思わず噛み付くと、ぶっくりと太った自分の右腕だった。
 足元を、ケーキが行進しているのが見えた。ベッドの左脇で、トンカツがダンスを踊っている。
思わずベッドから飛び起きて飛びつくが、途端にそれらは消えてしまうのだった。
すると今度は、ベッドの上でチョコレート菓子とラーメンがジャンプしていた。

 

 気がつくと、ミキの周りで何十、何百という食べ物が、環になり、飛んだり跳ねたり、ミキを挑発しているのである。

 

  ほぅら、食べなよ…
  おいしいよ…
  甘いよ…
  楽になっちゃいなよ…
  ちょっと一口だけでもさ…
  ほぅら……ほぉぅら……
  食べちゃえ……食べちゃえ……

 

 

「うあぁぁ……あああ、ああ、……食べたい……お腹、すいたぁぁぁぁあああぁぁぁあああああ!!」
 頭を抱えてのた打ち回るミキ。その叫び声を聞きつけ、医師が駆けつけた。
鎮静剤を打ち、即座に流動食を与えた。

 

やがて大人しくなったミキは、そのまま眠った。

 

 

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