肥満化ウィルスにご用心
次の日、ベッドの上でミキは目が覚めた。
全身に重くのしかかる重量感。昨夜より何十kgも太っているようだった。
「お目覚めですか」
横にいた医師が言った。
「危ないところでした。“発作”寸前でしたよ。あと数分処置が遅れていれば、助からなかったでしょう」
くれぐれも、食欲を抑えることの無いように。
そう付け加えて、医師は部屋を去った。
ミキは自分の体を見た。ゆうべとはまるで別人の体だった。
腕も足も、2周りは大きくなっている。昨日はピッタリお腹を隠していたパジャマは完全にボタンが飛び、重量感あるお腹が飛び出ていた。
昨日1日我慢した反動で流動食を大量に摂取し、1晩のうちに30kgも太っていたのである。
無言のまま、横に用意されていた、新しいパジャマに着替える。体温上昇を抑えるため、キャミソールのような薄着のパジャマになっていた。
ミキの抵抗は、未遂に終わった。
そうだ。そんな簡単なわけないのだ。絶食してウィルスを退治できるなら、今までだれだってそうしてるに決まってる。ちょっと考えればすぐわかることなのに、そんなことすら気づかない。それほど今のミキは憔悴しきっていたのだ。
何事も無かったかのように運ばれてくる食事。
食べ続けないと生きられない体。
もはや、ミキの心は壊れてしまっているようだった。
もう太ることへの絶望も、死の恐怖も、元に戻るための希望すら失せてしまっていた。
毎日大量に運ばれてくる食事をただもくもくと食べ続け、腕の点滴と合わせて大量の栄養を吸収しては膨らみ続ける、ただの人形のようだった。
喋ることもなく、顔色も虚ろなまま変わることなく、日に日に膨らみ続けるだけだった。
入院して2ヶ月を過ぎる頃から、もはや3食、間食の区別は完全になくなった。
起きている間は休むまもなく常に何かを口に運び続け、寝ている間に全て消化した。
伸縮性のあるキャミソールも、次々とお役御免となっていった。
体重が200kgを越えたころから、ついに食事が特別食に切り替えられた。発作を起こす前、ユリが食べていた特別食だ。
ミキの病状が、危険な位置に来た証拠でもあった。
肥満ペースには個人差があるものの半年かけて250kgまで太ったユリに比べ、ミキの肥満ペースは異常に早かった。
ユリの惨状を目の当たりにして精神的傷を負い、過食症的状態になったのに加え、発作寸前まで至った経験により、ウィルスの活動が活発になったからだと医師は推測した。
トイレすらも備え付けの簡易トイレで済ませるようになり、ミキはベッドから動かなくなっていた。
かつての胴体並みに太くなった腕が、特殊に作られた栄養食を口へと休むまもなく動く。
巨大な腹肉は前へ横へ広がり、同じく巨大な胸を上へ押し上げる。
垂れ下がった腹肉はドラム缶のような足の間からベッドに接していた。
入院当初、ミキとは不釣合いなほど大きかったベッドは、今や完全にミキの体にフィットしたものとなっていた。
ミキが250kgを越える頃、医師がミキの部屋を訪れた。
「笹原ミキさん、提案があります」
医師の言葉にも、ミキは食べ続ける手を休めない。ただ黙々と食べていた。
「病気が治るかもしれない提案です」
ピタっ…と、ミキの腕が止まった。圧迫されて細くなった目を一杯に開き、医師を見つめる。
「治る……んですか?」
医師はベッドの横に座り、話を進めた。
「我々研究チームは、長きにわたってキシニコウィルス撃退のための研究をしていました。今まで有効な対処法がなく、ただ見守ることしかできなかったこのウィルスに、ついに対抗できるかもしれない手段を見つけたのです」
「……それは、どんな…」
「“発作”です」
医師は続ける。
「我々は先日、爆発的増殖中、つまり発作発症時のウィルスが、ある特定の薬物に対して耐性を失うことを見つけたのです。今までどの薬物にも完全耐性を見せていたウィルスです。まだ調査中ですが、これを用いれば、ウィルスを退治させることができるかもしれません」
「具体的には…?」
「いつ起こるかわからない発作を待っているわけにはいきませんから、強制的に発作を起こさせます。そして爆発増殖を始めたウィルスに薬物を投与し、退治します」
「お、お願いします! やってください! 治してくださいぃ!」
「話は終わってません」
身を乗り出し、興奮して懇願するミキをなだめ、医師は続けた。
「耐性を失うといっても、その薬物はそれほど強いものではありません。増殖しきった大量のウィルスを完全に退治するには時間がかかります。1匹でも残っていたら元の木阿弥ですからね。発作を起こすのですから、治療に長時間かかるということはすなわち、それだけ肥満することになります。おそらく100kg単位で」
「…………」
「そのため、ある程度体重に余裕がある人じゃないとこの方法は使えません。すでに体重が何100kgもある人の体は、数100kgの体重増加には耐えられないのです」
「私はっ! 私は?! その方法は何kgまでなら使えるの?!!」
医師は一呼吸置いて、こう告げた。
「私どもの試算では、おそらく限界は250kgです。これが、まだ研究中で前例の無いこの方法を、ミキさんに薦める理由です」
医師は言った。
「この方法は先ほど言ったように、発症したら終わりだといわれる発作を人為的に起こし、強制的に数百kg肥満させる危険な方法です。正式に治療法にするには時間がかかります。まず成功するかすらわかりません。そのため、人体で実験するのが一番なんです。ですから、250kgという限界体重ギリギリであるミキさんに、今、この方法を薦めたんです。これを逃すと、もうこの方法は使えなくなるあなたにね。」
「実験、ですか……失敗する確率は?」
「なんともいえませんが、おそらく5分5分かと。比較的早くウィルスが消滅するかもしれないし、長時間かかってしまうかもしれない。長時間かかると、おそらく
250kgあるミキさんなら、増量に耐えられなくなってしまうでしょう」
「そんなの……嫌ですっ! 死にたくない!」
「ですが」
医師は加えた。
「あなたの体重はこの方法で助かるかもしれない限界なんです。先ほども言いましたが、今の時期を逃すと、この方法は2度と使えなくなってしまうかもしれません。これ以外の方法は見つかってない今、この方法以外に助かる道はありません」
医師は真剣な口調で迫った。
「いつ起こるかわからない発作に怯え、別の方法を待ちながら生きながらえるのか、今すぐ死ぬか助かるかの賭けに出るか、は、あなたの自由です。ですが、決断に時間はありません。どうなさいますか?」
悩んだ末に、ミキは決断を出した。
「お願いします。治療を受けさせてください」
即日健康調査などが行われ、翌日、その治療は実行されることとなった。
朝、発作を起こしやすくするため、起床後から一切食事は出されなかった。
空腹に耐えながらミキは、特別な治療室に運ばれた。
簡単な手術室のような部屋だが、ベッドおよび周辺のスペースは異常に広かった。急激な膨張に対応できる造りなのだろう。
ベッドのそばには巨大なタンクが設置されていた。様々な機器が並ぶその部屋は、あの日ユリが運ばれた部屋のそれと同じだった。
医師の誘導でミキはベッドに横になる。黒いキャミソールの下で、全身の肉が左右に広がった。
「ではいきますよ。いいですか?」
深呼吸して、ミキは1回、コクリと頷いた。
ミキの腕や足に数本の点滴が繋がれた。そして、ミキに1杯のコップが渡される。
「これを飲んでください」
意を決し、ミキは一気に飲み干した。若干甘いその液体は速やかにミキの胃に進み、腸全体へと行きわたる。
そして、
「あ…… あぁぁぁ…… き、来ました!」
体全体に行きわたる猛烈な感覚。あの発作寸前の夜と全く同じだが、それを遥かにしのぐパワーをはっきりと感じ取った。
ぐぎゅるるるるるぅぅぅぅぅぐぅぅぅぅぅぅぅぅ
「今だっ!」
巨大な腹の虫を合図に、医師が急いでミキの口にホースをあてがう。
機械のスイッチを押すと、物凄い勢いで流動食が流し込まれた。
同時に、数本の点滴からも養分が注入される。
発作が、起こった。
ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん、
猛烈な勢いで、夢中でただひたすらにミキは飲み続けた。
発作が起こっている今、もはや失敗への恐怖などミキの頭には一切無い。
あるのは、ただ夢中で飲み込み続けることのみであった。
ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん、
ブカブカな巨大なキャミソールの下で、広がった腹がむくむくと隆起し始めた。
分速数リットルの勢いで流し込まれる流動食が、贅肉を内側から押し上げているのだ。
ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん
隆起を続ける腹に続いて、全身がブクブク膨らみ始めた。栄養が腸に達し、吸収が始まったのだ。
この時点から、正式な治療は始まった。流動食に溶かしこまれた薬物が、爆発増殖中で耐性を失ったウィルスを攻撃する。
ごっくん、ごっくん、ごっくん、うぐっ、んごく、ごっくん、
ブカブカだったキャミソールに、肉がぴっちりとくっついた。
内側からの贅肉に合わせて、伸縮性の在る生地は風船のように膨らんでいく。
横になっていた体が苦しくないように、上半身が起こされた。
ごっくん、ごっくん、ごっくん、ごっくんごっくん…
あの日のユリと同じ虚ろな目で、夢中でミキは飲み続け、膨らみ続けた。
体重は300kgを越え、秒速1kgを越えるスピードで増え続ける。
風船のように伸び、まるでスクール水着のようになったキャミソールを纏ったその巨体は、海岸に打ち上げられた鯨を連想させる。
ごっくん、ごくん、ごくん、ごっくん、ごっくん、
膨張するその巨体を、医師はただ、計器の値に注意しながら見守るしかなかった。
400kg、410、420、430、440、450、……
ブクブク、ムクムクと膨張するミキ。
伸縮性キャミソールも耐えられなくなり、ついにはじけとんだ。真っ白な肉塊が露になる。
ホースにすがりつく腕は、それだけで普通の子供くらいはありそうなほど肥大していた。
腹は、詰め込まれ続ける流動食の圧力と、増え続ける贅肉で体のどこよりもハイペースで肥大を続け、巨大な饅頭かキングスライムのようにベッドの中央に鎮座している。
測る方法はないが、おそらくウェストは3mを遥かに越えているだろう。
中央で1mほどの深さはありそうな臍に小さく穴が開いている。
腹肉は上下左右に侵食し、太ももと一体となって膝ほどまで覆いかぶさっていた。
尻の肉も左右に広がり、鎮座する腹をどっしりとさせている。
胸は腹にのっかり、乳房は完全に上を向いて膨らみ続ける。
首は完全に頬と胸に飲み込まれた。
パンパンの頬が胸から生え、そこにホースが伸びているように見える。
ごっくん、ごくん、ごくん、ごっくん、ごっくん、ごっくん
520、530、540、550……
体重、体脂肪ともに増加する一方で、とどまる所をしらない。
しかしこれ以上の肥満はもはや助けられない域に達する。
だめか…ただ発作を早めただけで終わってしまうのか…
医師が絶望しかけたそのとき、
「!」
体重が650kgを越えようか、という時、計器の値に変化が見られた。
体重は増加し続けているものの、先ほどまで体重と一緒に上がっていた体脂肪率の増加が急に鈍くなったのである。
はっ、としてミキを見ると、虚ろだった目に苦しそうな表情が見えた。
全身の膨張はほとんど止まり、流動食が入り続ける腹だけが膨らみ続けている。
医師は急いで流動食を止めた。すると、腹の膨張も止まった。
処置室内が静まり返った。
医師は、ミキの口からホースを抜いた。
「んぐっ………っぷはっ! はぁっ はぁっ はぁっ うぐっ …はぁっ」
栄養が止まり、膨らみ、肥りきったミキが浅く、苦しそうな息をする。
「せん、せっ! わたっ はぁ、はぁ、私はっ?!」
「ミキさん! 意識があるんだね。空腹は感じるかい?」
苦しそうに息をしながら、やっとの思いでミキが首を横に振った。
「やった、……やりましたよミキさん! 成功です! ウィルスは退治できました!」
巨大な腹を上下させ、荒く息を続けるミキの、肉に占領された顔の奥に、わずかに笑顔が見えた。
ミキの体重は最終的に670kgにも達した。体中がぶくぶく、パンパンに膨らみ、腹囲は4mを越えていた。
腹の先頭はつま先ほどにも遠ざかり、挟み込むような足は大人の胴ほどもある。
頭数個分になった乳房は円形に垂れ、腕はホースにすら届かなくなっていた。
後にわかったことではあるが、後30秒治療が長引いていたら、限界体重を越え、ミキは助からなかったという。
ウィルス撃退後、すぐさま体重をさげる脂肪吸引処置が行われた。ほぼ瞬間的に670kgもの体重になった体にはそうとうな負担がかかり、長期間そのままでいるのは危険だからである。
まずその場で100kgほどの脂肪を吸出し、その後は体を慣らしながらゆっくりと、1ヶ月かけて150kgまで落とした。伸びきった皮膚を切除する手術を受けたのちは再び1ヶ月かけて、食事療法などで数十kg落とし、夏が終わる頃には見事退院となった。
療養所の、初めての退院者だった。