792氏その8
「だいぶ慣れてきたんじゃないの? 動きも良くなってきたじゃない」
「はぁ、はぁ、そうですか? そういえば…」
今日も運動のメニューを黙々とこなす彩香に、学がそう話しかける。
毎日顔を合わせる事で、少しだけ二人は打ち解けており絶対的な上下関係はあるものの、気さくな学の性格も相まって世間話をする程度の仲になっていた。
(彩香には、ここでは学と三田村くらいしかまともに会話できる人間はいないというのも大きいが)
たしかに、初めに比べれば幾分運動も楽になってきた気がする。
この生活を一ヶ月程続けた事で、体力もだいぶ戻ったようだ。
もっとも、運動メニューは長時間運動させることを想定させているのかかなり時間がかかり、終わるのは昼前になってしまうのできまってお腹はペコペコになってしまうのだが。
「じゃあ、体重を計ってみようか」
運動後に一休みをしていると、そう言いながら、学が体重計を持ってきた。
「…乗れって事ですよね」
じろりと学の顔をうかがうと、うんうん、と学は楽しそうに頷いた。
いくら向こうは自分のある程度の体重を把握しているとはいえ、若い女の子が目の前で体重を見られて恥ずかしい事に変わりはない。
今の自分は、もうあきらかにデブといえる程に太ってしまったのだから。
だが、今の彩香にはその言葉に従う以外の選択肢は無い。
もう、不思議と抵抗する気すら起こらなくなってきているくらいだ。
体重計に乗ると、ギシィッという重みで軋む音と共に目盛りが勢いよく回っていく。
学は座り込んで数値を興味深そうに覗き込み、それを読み上げた。
「体重75kg… だね」
(え? もしかして、減ってる…?)
ほんの少しだが、体重が減っている…
ここに来て体重が減少するなど、もちろん初めての事だ。
これも毎日の運動の成果だろうか?
そういえば、心なしか身体のたるみがとれ、いくらか贅肉が減った気がする。
このままの調子で行けば、少しは痩せられるかもしれない…
そんな淡い期待すら抱いてしまう。
「オッケーオッケー、お疲れ様。今日はこれまでにしておこう」
そう言われ自分の部屋に戻った彩香。
当然、テーブルの上にはいつものように御馳走が並んでいる。
(せっかくちょっとでも痩せたんだから、食べる量を減らしていかないと…ただでさえ、食べすぎなんだから)
そう思いつつ、皿を取る。
半分ほどの量を食べ、ここで今日はやめておこう。と箸を置く。
だが…
(…これでも充分な量のはずなのに、何で…?)
空腹はとても収まらない。
もう普通よりもかなり多めに食べたというのに、全く満足感を感じないのだ。
すっかり大食いに仕込まれた身体は、嫌でも目の前の食べ物に反応する。
(うぅ… 食べたら太るのは分かってるけど、我慢できない…)
結局、残らず全てたいらげてしまった。
それでもようやく満腹で落ち着いた、という感じだ。
自分の大きくなりすぎた胃袋に、軽い目まいすら覚えてしまう。
そして襲ってくるいつもの眠気。
薬が仕込まれているなど夢にも思わない彩香は、それを運動の疲れと、満腹になった事から来るものだと思い込んでおり、あっさりとベッドに横になる。
より太らせる為の巧妙な策略とはお嬢様育ちの彩香にはもちろん知る由もない。
食事の後の昼寝はとても気持ち良く、もはやばっちりと彩香の生活習慣の一部となっていた。
夕方には目が覚め、しばらくすると、また大量の食事が運び込まれてくる。
(…夕食くらいは少しは控えないと… でも、あまり食べないと明日が辛いし…)
そんな言い訳を心の中で反芻しながら、結局またぺろりと完食してしまう。
食べ物が絡むと途端に意志が弱くなる自分を嫌悪しながら、明日からは食べる量を減らそう… と思いつつ、シャワーを浴びて明日に備え早めに眠る彩香。
だが当の本人にも、もう自分の食欲が歯止めのきかない状態になりかけているのは薄々分かっているのだった…
毎日、強制的に運動させられる生活はそれからも続いた。
体力も徐々に付いていき、運動の後の美味しい食事と睡眠に充実感すら感じつつある。
これで、体重も減っていってくれれば、何の問題も無い…
だが、そんな彩香のほのかな期待はすぐに打ち砕かれた。
体重が順調に減っていったのは、最初の一ヶ月だけにすぎなかった。
本人は知らないものの、相撲部屋の力士と同じ生活をなぞる事で面白いように体重が増えていく。
食事の量は、もう常人では考えられないくらいの量を食べているのだから当然だ。
今までは、その栄養が衰えた筋肉に向いていたのだろう。
その矛先がついに脂肪に向いたのだ。
だが、毎日のメニューで消費したカロリー… いや、それ以上を摂取することに慣れきった身体は、もう本人にもどうする事もできない。
(まだお腹が空いてる… ダメよ。でも止まらないよぉ…)
目の前の大量の御馳走を、余す事無く食べ切る自分の胃袋に恐ろしさすら感じる。
これだけの量を食べていけば、取り返しの付かない程にまるまると太ってしまうのも時間の問題だ。
心の中で、何度も何度も、箸を止めようと葛藤する…
だが、噛みしめるたびに口の中に溢れる肉汁が、旨みのたっぷりと出た濃厚なスープの味が、デザートの豊潤なフルーツの甘味が、そんな感情すら打ち消してしまうのだった。
それからしばらくの月日が経過し…
丁度、彩香がここに連れて来られ丸一年が来ようとしていた。
一年前の、誰もが振り返るような気品に溢れた美しい少女の姿は今はもうもちろん無い。
以前は下半身中心に柔らかい贅肉が付いた、だらしない中年女性のような太り方だった身体は、さらに見違えるように変化した。
…もっとも、決して嬉しくは無い変化ではあるが。
のしのしとトレーニングルームに歩いて行く、立派な体格のジャージ姿の女性…
それがかつての令嬢、綾之沢彩香の現在の姿である。
太股はまるで競輪選手のそれのように大きくなった。
二の腕も並の男性よりもはるかに太い。
デンと突き出した腹は貫録たっぷりで、脂肪の奥にはしっかりと固い腹筋が付いている。
たるんでいた尻は、パンパンにはち切れんばかりに膨らんでいる。
LLサイズだったジャージは、3Lサイズにまで大きくなった。
まるで相撲取りのような、ごつく太いデブ… 女性にとっては、まだ以前のたぷたぷとした柔らかそうな身体の方が幾分かマシかもしれない。
元が美人ゆえに、まだ見苦しい程のデブというわけではないが… もはや普通の女の子とはとても言えない、砲丸投げの女子選手のような貫録たっぷりの体格である。
体力的にもかなりのものになった為、毎日のトレーニングは楽にこなす事ができるのは彩香にとって不幸中の幸いと言えた。
動くたびに揺れる自分の肉を感じながら、鈍重になってしまった自分の動きを感じながらちゃくちゃくとメニューをこなしていく。
運動の最中、ちらりと学の方を見ると、今の自分と違い、すらりとした痩せ型の身体だ。
それにひきかえ自分と言えば、もはやドラム缶のようなぶざまな体型になろうとしている。
もう、自分の身体は、三田村よりも、学よりもはるかに大きくなってしまったのだ。
そんな惨めな気分を癒してくれるのは、食事の満腹感のみだ。
部屋に戻り、もりもりと食事をたいらげる彩香はいつもこう思う。
(こんな生活がいつまで続くのだろう…)
(自分はあとどのくらい太らされるのだろう…)
その不安感が、余計に食欲を駆り立てるのだった。
(フゴ…グォオオオ…)
「やれやれ、さすがに騒々しいねぇ」
モニター室に響き渡る雑音に、学は少し呆れた様子でこう呟いた。
雑音の正体… それは彩香の大きなイビキである。
体重が90kgを超えた辺りから、彩香は寝息に下品なイビキが時折混じるようになり、今や眠るたびにこのような大きな騒音を発しているのだ。
ここまで太ってしまえばそれも当然だろう。
「現在体重104kg、3サイズも全てゆうに100を突破していますからね」
「随分と立派になったね。この大イビキも仕方ないか」
「…同じ女性として、恐ろしいです。生活習慣を少しいじっただけで、短期間で、まさかあのような姿に変わってしまうなんて」
一年前の可憐で華奢な姿を知るだけに、今、寝転がっている彩香の変貌ぶりに三田村はごくりと生唾を飲み込む。
「さて、やっと土台はできた。あとはこれに着ぐるみを被せるだけだ… 脂肪という、巨大な着ぐるみをね」
「…いよいよですね」
三田村のひどくこわばった表情が、これから辿る彩香の運命を物語るようだった。
「ここまでの彼女はまぁ太いけど… 探せば居る程度のデブだよ。ここからは違う。どこにもいない、オンリーワンの存在にしてあげよう。ククク… ハハハハッ」
学の言葉に、徐々に狂気が混じっていく。
驚いた事に今までのそれは、更に大きく、更に太く… 太らせる為の土台作りにすぎなかったのだ。
二人が去り、しんと静まり返ったモニター室には、彩香のイビキだけが鳴り響いていた。