行列のできるえーりん診療所
初夏の風が竹林をくすぐり、さらさらと心地よい葉擦れの音が響いている。
リグルが尋ねてきてからすでにひと月ほどが経とうとしていた。
永琳の使いであちこちへ出かけている鈴仙の目撃談では減量は続けているらしい。
根が真面目な性格で、元々は慎ましい生活を送っていた彼女のことだ。
何の問題もなければそのまま元通りの体型を取り戻せるだろう。
…そう、何の問題もなければだ。永琳は若竹を半眼で仰ぎ、ぽつりと呟く。
「厄介なのは例の“恋”よねぇ…」
「お師匠様ー!! 急患! 急患ー!!」
唐突に思考をかき消すほどの大声が永遠亭を揺るがした。
急患という言葉の緊迫感に対して、その声は何となく楽しそうだった。
さては来たわね…、永琳は肩をすくめると玄関へ顔を出す。
そこでは予想通りの顔ぶれが思い思いの表情で大騒ぎをしていた。
一番手前でワクワクを隠しきれていないのがてゐ。先ほど永琳を呼んだのは彼女だ。
それから何を考えているのか分からない顔でふわふわしているルーミア。
滅茶苦茶に慌てて何を言っているのか分からないチルノ。
青い顔で妖怪兎たちの輪に向かって何事か叫んでいるミスティア。
そして、息を切らした妖怪兎の輪の中心で人事不省に陥っているのは―… リグルだった。
鈴仙の話では確かに減量の運動を続けていたはずなのだが、
彼女は先日診たときよりも一回りも二回りも大きくなっていた。
少ない収入で買い換えたと見える大き目のブラウスは既に窮屈そうで、
大きな腹が邪魔をしてボタンは上から三つまでしか留まっていない。
それも何とかギリギリで持ちこたえているような状態だった。
今までは前にばかり突き出ていた腹が、横方向や背中にまで肉をつけた結果か、
ズボンに至ってはサスペンダーで支えなければずり落ちてしまう有様らしい。
そのサスペンダーも贅肉だらけの肩に食い込んで見るからに痛々しい。
真っ赤な顔で荒い息をしている。もしかすると熱があるのかもしれない。
当然、呼吸に合わせて腹も上下するが、ここまで太ってはそれすらも辛そうだ。
いつまでもこんな硬い床に寝かせていては可哀想だろう。
永琳は散り散りに逃げようとしていた兎たちに手を叩いて声をかける。
「みんなもう一踏ん張りよ、彼女を奥の診察室まで運んでちょうだい」
妖怪兎たちが一斉に悲鳴を上げた。
兎達の健闘により診察室のベッドに寝かされたリグルがゆっくりと目を開けた。
心配そうに自分の顔を覗き込んでいた友人たちが歓声を上げるのをぼんやりと聞いている。
やがてミスティアに思い切り抱き締められ「ぐぇっ!?」と叫ぶとようやく覚醒した。
むっちりとした手のひらを振って彼女を脇に退け、身を起こそうとして―… 一度断念する。
お腹が出すぎたせいで普通の人妖と同じように起き上がるのは億劫なのだろう。
一息おいてから身をよじって不恰好に起き上がった。
「……ごめん。なんだか心配をかけたみたいで」
「本当だよ! 私、リグルが死んじゃうんじゃないかって心配したんだから!」
退かしたはずのミスティアに正面からタックルされたリグルは再びベッドに転がってしまう。
せっかく起き上がったのに〜… という無念の声が虚しく診察室に木霊した。
ベソをかいたミスティアはリグルの柔らかい胸に顔をうずめたっきりだ。
発熱で赤くなった頬を更に紅潮させて、リグルがその頭を恐る恐る撫でている。
そのじゃれ合いを意味深な面持ちで眺めていた永琳だったが、頃合を見計らって口を開く。
「それで何があったのか、誰か私に説明してくれないかしら。
詳しい話を聞かないと診察をするのに困るのよね」
「あ、ごめんなさい。えっと、詳しく説明するほどのことでもないんだけど…。
湖の周りでランニングをしている最中にひどい眩暈がして、そこから記憶がないの」
「うん、リグルってばそのまんま倒れちゃったんだ。あたいはずっと見てたよ」
「こんな暑い日に走ったりするからー。だから私が暗くしてあげようかっていったのにー」
「そんなことしたら道が見えなくてリグルが湖に落ちちゃうじゃない!
原因は暑さじゃないよ、リグルがちゃんとご飯を食べないからだったら!」
順にリグル、チルノ、ルーミア、ミスティアの弁である。
ミスティアの言葉に永琳の目が鋭く光るのが分かった。
やはり持たなかったのねと言うのが聞こえて、リグルは必死でなけなしの首を振った。
「ち、違う違う! 私、永琳先生の言うとおりちゃんとご飯は食べてるよ!!
いきなり量を減らすような無理もしなかったし、間食だって控えたもん!!
運動もアドバイスを参考にしてメニューを組んだし、サボってもいない!!」
「でも、私のご飯は食べてくれなくなった!!」
「そんな… ミスティア…。あんたの屋台にも通っているじゃない。
確かにペースは落としたし、おかわりの回数も減らしたけれど、
それでも少女にしては食べすぎなくらいで…」
「ダメだよ、あんな量じゃ全然足りない。参って当然なの!
リグルは私のご飯でなきゃダメなの! このままじゃ薬が切れ―… あっ」
診察室の時間が止まった。ミスティアの顔が見る見る青ざめていく。
それと同じくらいのスピードでリグルからも血の気が引いていた。
今、ミスティアは何て言った? 薬が切れる? 薬って何だ?
頭の中をグルグルと疑問が渦巻くが答えは一向に出てこない。身に覚えがない。
凍りついたように動けなくなった二人を見かねた永琳が咳払いをした。
「そこまでね。ミスティア、あなたも彼女を信じて本当のことを仰いなさいな」
「あ…、う…、うぅぅ…、ごめん、ごめんね、リグル……。
私、ずっとあなたにひどいことをしてたの…。
リグルが私の料理を喜んで食べてくれるのがとっても嬉しかったのよ。
でも、リグル、最近体重が増えたことを気にしてたでしょう?
もしかしたらもう私のところに来てくれなくなるかもしれないって思って。
ずっと私のそばにいてほしくて。それで永琳に薬を処方してもらったの」
「え…? え……?? あの、永琳先生…?」
「聞いての通りよ。あなたより一足早く私のところへ診察へ来た彼女に薬を出したの。
食事に混ぜ込むことで、そのカロリーを増加して食べた相手を太らせるという薬をね」
「………はい? …惚れ薬とかでなくて?」
思わず目が点になってしまう。
ミスティアと自分をくっつけたいのであれば、その方がどう考えても手っ取り早い。
「えぇ、惚れ薬とかでなくてよ。後でそんなものであの子に惚れたんだと知ったらどう?
流石に良い気分ではないでしょう。それで別の手を考えることにしたのよ―…」
永琳の説明によるとその薬は本来は体調を崩した人妖に処方するためのもので、
失われた食欲を取り戻す目的で空腹中枢にも強く働きかけるのだとか。
それにより痩せ衰えた体は素早く回復を図ることができるというのだ。
通常は病人食に少量を混ぜ込むだけなので、リグルほど丸々肥えることはないらしい。
しかも、この薬の効果によって増えた脂肪は大変燃えやすくなっており、
病が完治したあとのリハビリを効果的に進める目的も持っているのだという。
だからリグルがあのまま運動を続けていれば元通りになるはずだった。
薬の効果でミスティアの料理が美味しく感じる、イコール、屋台に毎日足を運ぶ。
その上、リグルが危機感さえ持てば減量も促せる。一石二鳥のはずだった。
「だけど、これでは何も解決していないも同然なのよ。
だから私はミスティアに言った。リグルが元に戻る前に決着をつけなさいと」
しかし、彼女は永琳の言う“決着”をつけることがどうしても出来なかったのだ。
薬の効果に甘えて、このままリグルが毎日自分のところへ通ってくれればいいと思った。
ところが彼女が屋台に通うペースが落ち、リグルがついに減量を始めたのだと知った。
それで計画通りのはずだった。
減量中なのだから食べる量が減ってしまうのは仕方がないことだと納得出来たが、
今までほど嬉しそうに食べてくれないことが何かひどく気にかかった。
薬が効いていないのだと思った。
冷静に考えれば彼女が痩せれば、また変わらず食べに来てくれると思えたはずだ。
だが、その頃にはミスティアの判断力は取り返しの付かないレベルにまで鈍っていた。
「さっき“持たなかった”と言ったのはリグルに対してじゃないの」
永琳の言いつけを破って、一回分の用量を倍に増やした。
「…その子によ」
倍にした用量を、更に倍にした。
再び診察室を静けさが支配した。
ルーミアは空気を読んだのか、何も考えていないのか、静かに成り行きを見守っている。
チルノは単純に話についていけないだけで、それが悔しいのかムスッとしていた。
永琳はあえて黙っている。…最初に口を開いたのはミスティアだった。
「いつの間にかあの薬がなければリグルは私を見てくれないって思うようになってた。
バカみたい。そんなものがなくても美味しいって言ってくれてたのに。ずっと…」
ずっと悩まされてきた憑き物がふいに落ちてしまった、そんな顔に見えた。
どうしてあげたらいいのかが分からなくて、太い腕を回してぎゅっと強く抱きしめた。
ミスティアの小さな体はお腹の肉に埋もれてしまう。何故だか笑ってしまった。
そのじゃれ合いを優しげな面持ちで眺めていた永琳だったが、頃合を見計らって口を開く。
「二人ともよくお聞きなさい。これが今日の診断結果よ」
リグルとミスティアだけでなく、ルーミアとチルノもハッとして永琳を仰ぎ見た。
月の天才は美しい笑みを湛え、柔らかくも凛とした声で診断を告げる。
「―…お互いに素直になりなさい。心からの言葉、それが一番の薬よ」
その言葉に四人全員が目を丸くして、それからほとんど同時に、
「私、太ったリグルのことが好きなの!!」
「何だかすっごくお腹が空いてきた!!」
「二人ともお似合いだと思うよー」
「それで結局のところどういうこと!?」
…と、思い切って告白して、笑いあったのだった。
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