334氏その8
私の名前は平野由良。
桜ケ丘学園3年A組出席番号34番。
身長155cm体重45kgの痩せ型。
得意科目は数学。嫌いな科目は体育。成績は中の下。
一応生徒会の会計職で、学内行事や部活動の予算管理等を担当しているごく普通の女子高生である。
これといって華やかな経歴を持っているわけでもないし、
人に誇れるような特殊能力を秘めているわけでもない。
仮にこの世界が小説ならば、毎朝主人公に「おはよう」と声をかけるだけの同級生A、
という役になるのだろう。
それでは、主人公として適任者は誰なのか――
それは桜ケ丘学園生徒会長、黒瀬綾に他ならないと思う。
3年C組出席番号10番、身長175cm体重60kg。
某大企業の役員の一人娘で家柄も良く、学校の成績も常に1番2番を争うほど頭も切れる。
制服のボタンがはち切れるくらいの大きな胸を持っているくせに運動神経も優れており、
あらゆる部活に助っ人として呼ばれている。
彼女のあふれんばかりの才能に関してはいくつかの逸話が学内に流布している。
入学した時すでに大学院レベルの物理学を理解していたこととか。
2年の時に助っ人として参加したバスケ部を全国大会で優勝に導いたこととか。
この前のバレンタインでは人気モデルの芝雅也と合コンをしたこととか。
あらゆる点で優れてるのが黒瀬綾という人物なのだ。
凡人たる私とは月とすっぽんどころか、太陽とミジンコくらい差がある。
で、私は今何をしているのかというと――
太陽がいる生徒会室に体育祭の予算関係の書類を届けているのである。
1カ月後に控えた体育祭は我校あげての一大イベントで準備に時間とお金がかかるため、
必要な用具や備品の申請は今の時期から始まる。
私は必要経費を見積もるために、放課後学校に残って書類を作成していたのだ。
作業をしていた3年A組を出て階段を登り3階に向かう。
左に曲がってすぐ左手にある部屋が生徒会室である。
階段を登りきり左に曲がろうとした時、不意に曲がり角から人が出てきた。
私はよけきれずにぶつかってしまった。
「す、すみません……」
「こちらこそ不注意だったわ。怪我はない?」
若い女性だった。20歳くらいだろうか。細めた目がとても優しそうだった。先生かな。
しげしげと女性を見上げていると、女性の後ろから声が聞こえた。
「小宮、どうしタ?」
角からまた別の女性が現れた。
こちらは浅黒い肌に長い白髪。外国人だろうか、こちらは年齢が良く分からない。
「ううん、生徒とぶつかっちゃった」
「これから一仕事するんだゾ。重々注意深くしてもらわなくちゃナ」
「そ、そうね、リリス。生徒さん、本当に悪かったわ」
優しそうな女性は私に向き合うと頭を下げた。
「い、いいえ、こちらこそ悪かったです」
私はお辞儀を返してその場を後にした。
「会長、体育祭の予算の見積もり、終わりました」
生徒会室の重厚な木の扉を開けると、会長の鋭い叱咤の声が私の耳に突き刺さった。
「遅い! たった50ページの書類作成に何時間かけているの?」
おそるおそる目を部屋の中に向けると、彼女は机に向かってパソコンのキーボードを叩いていた。
「あの、これでも頑張った方なんですけど……3時間で終わらせたんですよ?」
私の弱弱しい抗議が気に障ったのか、会長はその整った顔を上げた。
きりりとした眼にすらりと伸びた鼻。見つめられると言葉に詰まる威圧感のようなものがある。
「……まあ、あなたならその程度でしょうね。私なら30分で完成させることができるけれど」
彼女なら本当にその時間内で完成させることができるに違いないけれど。
彼女の優れた能力を知っている分、反論できないことが辛い。
私は俯いていると机の端に一枚のA4大の紙が乗っていることに気がついた。
『契約書』……?
ゴシック体で書かれた題名の横に会長の流暢なサインがされていた。
『私、黒瀬綾はリリ……と以下の契……を』?
「会長、この書類って……?」
私が拾い上げるよりも早く会長はその書類をつかんだ。
「あなたには関係ないわ。それより、見積もり書を見せてくれない?」
会長は書類を手渡されると一枚ずつめくり始めた。
「ふーん、今年の体育祭は必要経費の申請が多いわねぇ」
「あの……会長。ひとつ聞いてもいいですか?」
「何?」
会長は書類から目を上げずに答えた。
「学園に新しく先生が赴任してきませんでした?
さっき、廊下で若い女の人とぶつかったんですけど……」
ぴくり、と会長の口元がわずかに動いた――ような気がした。
「ええ、小宮真琴先生とリリス先生よ。先程ここに挨拶にいらしたわ。
小宮先生は3年A組の担任、リリス先生は3年C組の担任よ」
「今の時期に担任の交代ですか!? 浜地先生と松風先生はどうなされたんです?」
浜地先生はA組、松風先生はC組の担任だった先生だ。
どちらも30歳そこそこの女性だが指導力があり、生徒からの人気は高かった。
「残念ながらお二方とも体調を崩されて入院されておられるらしいの。
なんでも急にお太りになられたみたいで病院のベッドから動くこともままならないとか。
昨日、湯河原学園長から『浜地先生と松風先生を休職にする』との通知が生徒会に届いたわ。
小宮先生とリリス先生はお二方が復帰されるまでの臨時講師ね」
会長は書類に赤鉛筆で校正を入れながら淡々と述べる。
「そんな……」
「まあ、代わりに来られた先生方も良い先生みたいだし、いいんじゃないかしら。
それより、間違いがたくさん見つかったわ。明日までに修正してらっしゃい」
会長は私に読み終わった書類を突き返した。
苦労して仕上げた書類は赤い校正印で真っ赤に染まっていた。
***
ここで桜ケ丘学園の概要について少し述べておく必要があると思う。
学園は、桜市という人口5万人足らずの地方都市のはずれに位置している。
市の中心部から車で40分程行くと小高い丘の麓にある校門に辿り着く。
この校門には常時警備会社の警備員がいて、不審者が入ってこないか見張っている。
警備員の厳重なチェックを受けた後桜の樹に囲まれた坂道を10分程登ると、
赤茶色のレンガで造られた瀟洒な建物が見えてくる。
そこが私達の学び舎なのだ。
学生数は500人強。
ほとんどの生徒は県外出身で学園の敷地内にある寮で生活しているが、
桜市から通学している生徒もいる。
この学園は当時、市長だった湯河原喜一(現在の学園長、湯河原照一の父)という人が私財を投じて85年前に創立されたらしい。
湯河原市長は当時としてはかなり先進的な考えを持った人物だったようで、
「学業に専念できるように」と敷地内に充実した設備を整えた。
現学園長も父の理念を引き継ぎ、「良き学びは良き生活から」という考えの元、
随時学内設備の拡充を行っている。例えば、市内のレストランを学生食堂として招致したり、
一流ホテルと提携してジムや温泉付きの寮を建設したり、
最新のAV機器やパソコンを設置した視聴覚室を設けたり、等だ。
おかげで全国から入学希望者が詰めかけ、入学試験の倍率は10倍を超える。
当然、難関の入学試験を勝ち抜いた生徒達は頭が良い。
また、スポーツ特待生枠も設けて部活動で著しい成果を上げた生徒も採用しているため、
運動部の十数人かの生徒は各分野において全国クラスの実力を持っている。
ではなぜ私のような凡人がこのような名門校に通っているのかというと
――たまたま前日に山をかけて勉強した箇所が入学試験にそっくり出ていたからだ。
まさか自分でも受かるとは思っていなかった、記念受験だったのだ。
慌てふためく私に両親は「せっかく合格したんだし」「学費の事は心配しなくていいから」と入学を勧めた。
元来私は押しに弱い性格なのだろう。
両親に言われるままに入学書類に判を押し、親元を離れ入寮して学園での生活が始まった。
そしてなぜか入学当初から話題の新入生だった黒瀬さんに目をつけられて、
彼女が生徒会長に就任すると会計職を命じられたのだ。
改めて周囲に流されるままに最上級生までなっっちゃったな、としみじみ思う。
思いながら、私は寮の部屋でパソコンに向き合い会長に突き返された書類を作り直しているのである。
***
翌日。
深夜までかかってようやく書類を訂正しなおした私は、眠い目をこすりながら登校した。
廊下にはちり紙ひとつ落ちておらず、ところどころ壁にかかった花瓶に菜の花が飾ってある、
毎朝、清掃係のお姉さんが掃除してくれるおかげだ。
教室に入るとほとんどの生徒が登校しており、がやがやとおしゃべりに興じていた。
あくびをかみ殺しながら席に着くと、一人の大柄な生徒が話しかけてきた。
「平野さん、おはよ。なんだかとても眠そうだね」
彼女の名前は国東早紀。柔道部に所属するスポーツ特待生の一人で、
190cmを超える背丈の持ち主である。
がっしりと鍛えられた体躯は筋肉で太いが、顔は童顔で気は優しい。
クラスのお姉さん的存在である。
「うん、生徒会の仕事でね……。深夜2時まで書類作ってた。
会長が『今日までに提出しろ』っていうから……」
「『黒薔薇』は人使いが荒いねぇ」
そう言って彼女は苦笑した。
『黒薔薇』というのは、学園の生徒達が黒瀬会長を畏怖を込めて呼ぶ時のあだ名である。
遠くで見ると美しくて魅力的だが、近づくと棘で怪我をする
――プライドが高く人を見下す癖がある会長を嫌った誰かが名付けたことがきっかけで、
影で会長はそう呼ばれるようになった。
「それはそうと聞いた? 新しく赴任する先生の話」
昨日の先生達のことに違いない。
「うん、昨日偶然会ったよ。小宮先生とリリス先生っていうんだって。
小宮先生はA組の担任になるみたい」
「え!? 浜地先生はどうなるの?」
「そ、それはね……」
休職されたみたいだよ、という前に教室に湯河原学園長と小宮先生が入ってきた。
「静かに」
学園長が言うと、ぴたりと生徒達のおしゃべりが止まった。
そして、彼女達は視線を学園長から小宮先生に移し、
「この女性は誰なのだろう」という顔で彼女を眺めている。
「えー、みなさんおはよう。今日はみなさんに一つお知らせがあります」
学園長は前を向いて深みのある声で喋り始めた。
こころなしか普段より疲れて見える。肌に張りがない。
「浜地先生が体調を崩されて休職されました」
どよめきがクラスに広がる。
生徒達の動揺を払拭するかのごとく、学園長はたしなめるように言葉を続けた。
「しかし問題はありません。今日から臨時の先生が来て下さいます。小宮真琴先生です」
学園長に促されて小宮先生が前に出てきた。
「みなさん、はじめまして。小宮真琴と言います。
浜地先生の代理としてこのクラスを担当することになります。
これからよろしくお願いしますわ」
「学園長」
眼鏡をかけた生徒の一人が手を上げた。
笹倉誠という、クラスの委員長を務めている優秀な生徒である。
「浜地先生が復職されるのはいつですか?」
「あー、それはだね……」
「私が答えますわ、学園長。浜地先生の復帰の見込みはまだ分かりません。彼女は重病なのです」
「どのような病気ですか?」
「急に太られたんですよね?」
私はいてもたってもいられず発言した。
「あら、あなたは昨日の生徒さん」
「それは本当? 平野さん」
眼鏡の弦をつまむ笹倉さんに私は言った。
「うん、黒瀬会長から聞いたんだ。今、入院しているみたい」
「そう、その通りよ。えーと、平野……?」
「由良です」
「平野由良さん。浜地先生は数日前から異常に食事の量が増え、みるみるうちに肥えていったの。
今は自重でベッドから動くことができず、自分の名前も分からない状態よ。あるのは食欲だけね。」
そんな怖ろしい病気があるのだろうか。
「だから、いつ学校に戻られるか分からないわ。
私としても浜地先生のご回復を願っているのだけれど……」
「と言うことで、今日から小宮先生がこのクラスを受け持つことになりました。
彼女は若いけれど有能です。みなさん、しっかりと勉学に励むように」
学園長が話を打ち切るように言い放ち、学園長と小宮先生は教室を出て行ってしまった。
彼らが去った後、告げられた事実の重大さに再び教室は騒然とし始めた。
「浜地先生が休職だなんて……」
「頼もしくて好きだったのに……」
「それに比べたら、今度の先生はふがいなさそうで不安だよね」
口々に思いを述べる生徒達。
彼らの話になんとなく耳をそばだてていると笹倉さんが近づいてきた。
「平野さん、あの先生についてどう思いますか?」
「え? うーん、優しそうな先生だなって思うよ?」
「そうですか? 私は胡散臭いと感じましたね」
「どうしてそう思うの?」
「だって、あの先生、赴任してきたばかりなのに浜地先生のご容体について詳しすぎました。
なぜ彼女が前任の先生が休職された理由を詳しく知っていたのでしょうね」
「学園長が伝えたんじゃないの?」
「彼の性格からしてそれは考えにくいのでは?
学園長は職員のプライベートな事を臨時に雇った人間に軽々しく教えるとは思えません」
「考えすぎじゃないかなあ」
「とにかく、私は腑に落ちかねるところがあります。
昼休みにでも小宮先生にお会いして浜地先生との関係を尋ねるつもりです」
そう言って笹倉さんは自分の席に戻って行った。
***
チャイムが鳴って昼休みの時間がやってきた。
直前の時間は体育祭の予行練習だったのでお腹が減っていた。
いつもは笹倉さんや国東さんと一緒に昼ごはんを食べるのだが、
笹倉さんは職員室に小宮先生を尋ねにいっており、
国東さんは体育祭の実行委員なので予行練習の反省会に出ている。
私はそそくさと体操服から制服に着替え、校舎に隣接している学生食堂へ向かった。
学生食堂は学園長の肝入りで設置されただけあって、とにかく広くて綺麗だ。
5人がけの円形のテーブルが100卓ほどばらけて配置されており、
学園の全ての生徒を収容できる。
学生食堂は市内に出店している飲食店がいくつか入店しており、和食・洋食・中華等が楽しめる。
注文の仕方はフードコート形式で、学生は入口にある券売機で食券を購入した後
各店のカウンターで料理を受け取り、好きなテーブルに座って食事をする。
味は概ね好評で朝昼夕3食をここで済ませている生徒もいるくらいだ。
私はしっかりと食事を摂りたかったので、スパゲティー屋のカウンターに行き
ナポリタンの大盛りとアイスティーを頼み、手頃なテーブルに座った。
フォークを持ち食事に取りかかろうとした時、対面の椅子にトレーを持った女生徒が座った。
「よ、由良ちゃん」
生徒会の書記職、諫早美羽だった。くりっとした目が愛嬌のある、私の同僚である。
「由良ちゃんのクラスも新しい先生が来たんだっけ。私のクラスと同じだね」
諫早さんのクラスも会長と同じ3年C組――
松風先生に代わってリリス先生が担任を務めるクラスだ。
「今朝のホームルームで学園長が言ったの、松風先生、ご病気だって。早く良くなると良いな。
新しく来たリリス先生は……外国人なのかな、日本語片言だし、ちょっと不気味なんだよね」
「私のクラスでも新しく来た先生を不安に感じていた子、いたよ」
私は笹倉さんのことを思い出し、くすりと笑った。
「へー。やっぱり突然の出来事だからとまどうよね」
彼女はテーブル上にあった箸置きから割り箸を一膳取り出し、手に持った。
良く見るとトレーの上にはLサイズのカツ丼が乗っている。
普段カロリーに気を使っている彼女にしては珍しい、「重たい」メニューだ。
「今日はカツ丼なんだ。美羽にしては珍しいね」
「そういう由良ちゃんこそ、ナポリタン大盛りだよ」
「体育祭の練習でお腹減っちゃって」
「私も。いつも両親に食べ過ぎは良くないって釘を刺されているんだけど
今日くらいはいいかなって」
彼女の両親は学生食堂に出店している店の一つ、レストラン「いさはや」のオーナーなのだ。
学生食堂の方の店には彼女の大学生の姉、諫早由宇が切り盛りしている。
「そう言えば由良ちゃん、会長見なかった?
渡したい体育祭関係の書類があったのに、昼休みが終わるとすぐにどこかに行っちゃったんだよ」
「あ、そう言えば私も渡す書類があったんだった」
昨日の見積書のことである。
「生徒会室にいるんじゃない? 昼ごはんが終わったら一緒に行こう」
余程お腹がすいていたのだろう、私達は10分程で昼ごはんを食べ終えると食堂を出た。
食堂から少し行ったところで、笹倉さんと出会った。
手に大きな手提げ袋を持ちながら、片手でクッキーを頬張っている。
「笹倉さん、小宮先生のところには行ったの? どうだった?」
私の問いかけに笹倉さんはにっこりと微笑んだ。
「小宮先生、私の予想に反していい人でしたよ。
浜地先生の休職の理由も学園長から聞いてみたいです。
『不安がらせてごめんなさいね』って、手作りのクッキーもらっちゃいました。
後でクラスのみんなに配りますね」
そう言って、彼女は手提げ袋を掲げた。
「わあ、ありがとう」
「さてと、気が抜けたらお腹がすきました。食堂に行ってきます」
「いってらっしゃい」
私達は笹倉さんと別れ、教室に書類を取りに行ってから生徒会室に向かった。