塵屑蟲
6、
***
「う…ぐ…、ふぅ…」
今日が終わった。
ひたすら何かを食べ続ける一日が、今日も終わった。
自分の部屋でベッドに体を横たえる。最近、一つ一つの動作が怠い。
「ふぅ…」
横になったまま、膨れたお腹をさする。
以前はぱつんぱつんに張った手触りがあったけれど、
最近はむちむちとした弾力が手のひらに伝わるのがわかる。
確実に、肉がついている。それも、かなり深刻に。
「…せっかく、ダイエットしてたのに…」
両手の位置を下腹の方に移動させる。ここも、むにむにとした触感があった。
太ももや二の腕もなんだか、むくんだ感覚がある。体全体が気怠い。
この気怠さは、私が太ってしまったからだろうか。それとも、お腹の中の蟲が原因だろうか。
「やだ…。太るのは嫌…」
クラスメートにも、私が毎日食べてばかりいるのが気付かれ始めている。
そんな中で、みっともなくブクブク太るのだけは嫌だ。
蟲の事を隠し通せたとしても、クラス中からデブ扱いされたら結局笑いものだ。
「そんなの嫌…」
そんな事になったら、こんな思いをして蟲の事を隠してきた意味が無くなる。
私は、無意味に苦しんでいた事になる。そんなのは、耐えられない。
「嫌…」
目の奥が熱くなる。嫌だ。笑われるのは嫌だ。デブ扱いされるのも嫌だ。
耐えられない…
***
「(ねぇ…あれってやっぱり…)」
「(だよね、ヤバいよね。)」
体育の授業の、着替えの時間。
女子更衣室の隅の方で、クラスメートがヒソヒソと話すのが聞こえる。
「(うわ、お腹の肉とか、パンツに乗ってんじゃん。)」
「(わー…ヤバいねー…)」
誰の事を言っているのかなんて、考えなくてもわかる。
私は自分の身体を隠すように、体操服の上を着る。
白い生地がお腹にぴっちりと貼り付く。これでは隠したことにならないか。
「(うわ、デブじゃん…)」
胸のあたりがチクリと傷む。言われた。今一番言われたくない事を言われた。
「(なんか最近、休み時間とか食べてばっかだったしね。)」
「(ああ、それなら当然だねー。)」
うるさい、あなた達に、私の苦しみがわかってたまるか。
私が何でそんな事をしなければいけないのか、知らないくせに。
一月半の間、私がどれだけ苦しんできたか、知りもしないくせに。
私の事を、好奇の目で見ながらヒソヒソ話していた二人組が更衣室を出て行った後、
私は一人、更衣室の中で涙を流した。
例えわざと授業開始ギリギリに更衣室に入っても、着替えている子が誰もいない事は、
あまり無いのだ。
始めの頃は、誰も気付かなかった。けれど、だんだん私の身体の変化に気付く子が現れ始めて、
今はもう、クラスに私の身体の変化に気付いていない女子は、いない。
最近はわざと時間をずらして更衣室に入っても、自分が着替え終わったにも拘らず
私の事を笑うためだけに更衣室に残っている奴もいるくらいだ。
結局、私は笑いもの。
いっそ、病院に行ってこの蟲をとってもらえば良かったか。
そして、ゴミ子が私にした仕打ちをバラしてしまえば良かったか。
「……。」
いや、それは駄目だ。これ以上、私は皆の笑いの種にされるのはごめんだ。噂されるのはごめんだ。
でも、もうどうすれば良いのかわからない。
そんな事を考えていたら、背後で更衣室のドアが開く音が聞こえた。
また誰かが私を笑うために、こんなギリギリの時間に着替えに来たのだろうか。
「…あれ…あなたは…。ケホ…けほ…。…なんだ、誰も、いないと、思った…のに…」
聞き覚えのある掠れた小声。不自然に途切れる話し方。間違いない、ゴミ子だ。
ゴミ子が、私の後ろの壁際のロッカーを使って着替えをしようとしている。
私は慌てて涙を拭く。こいつにだけはこんな所を見られたくない。
「あれ…?…ないてる…。コホ…ケホ…。…ふふ…ふふふ…ざまー、み…ろ…」
こいつにだけは弱みを見られたくない。それなのに。
「ふ…ふふ…ふ…。ケホ…。ふ、ふ…。」
薄気味悪い咳の混じった笑いが聞こえる。
笑うな。やめろ。やめろ。こいつにだけは笑われたくない。
私はゴミ子の方をふり向いて、ゴミ子を睨み付けた。そして、
「!?」
思わず、息を呑んだ。
ここは更衣室。着替えるための場所だ。
だから、私の後ろでゴミ子が服を脱いでいてもおかしくはない。
「あなた…それ…」
でも、むき出しになったゴミ子の背中に、
どす黒い染みが斑状に広がっているのはどういう事だろう。
病気?しかし、人間の身体が、こんな色になる病気なんかあるのだろうか。
まるで、墨汁を付けた巨大なミミズが暴れまわったような染み。
「…どうでも、いいじゃない。」
そう一言呟くと、ゴミ子はさっさとジャージを着て、更衣室を出て行った。
授業開始のチャイムが鳴った。
「はぁ…っ…!はぁ…!はぁ……」
苦しい。
「ふぅ…ふぅ……」
苦しい。足が重い。お腹が重い。体が重い。暑い。
今日の体育は、女子はハードル跳び。男子は…何だったか。
「はぁ…はぁ…」
50メートルのコースに均等に置かれたハードルを跳ぶだけの授業。
「ぜぇー…ぜぇー…はぁー…」
跳べない。体が上がらない。喉の奥が熱い。
ハードルを飛び越えようとする度に、足が引っ掛かる。
ちょっと前まではこんな事は無かった。運動神経は、ある方だった。
最近は休みがちになってしまった部活だって、運動部だった。
こんな惨めな事にはならなかった。一回走る毎に、ハードルを半分以上倒す事なんか無かった。
「(やっぱ、アレじゃあね…)」
「(だよね…。デブりすぎだよね…)」
ハードルを跳び終えた私の耳に、クラスメートのヒソヒソ声が聞こえる。
うるさい。私だって、好きでこんな身体になった訳じゃない。
「(でも、ゴミ子よりマシじゃない?)」
「(ああ、あれは論外だから…)」
私の次は、ゴミ子がハードルを跳んで…いるとは言えないかもしれない。
足を引きずるようにのたのた走って、ハードルに激突しては倒していく。
時々咳き込んで立ち止まり、また走り出す。
ルール、知っているんだろうか。
「(あーでも、このままいけばあれに並ぶんじゃない?)」
「(あー確かに。体が重いと跳べないからね。)」
私は今、あんなのと比べられているのだ。あんな気持ち悪い奴と。
背中によくわからない斑模様がついてるような奴と。
「(まあ、あっという間にそうなるだろうけどね。)」
「(だよね…。最近激太りしてるし。)」
嫌だ、それは嫌だ。あんな奴と同レベルになるのは嫌だ。
お腹に軽く触れてみる。最近は、お腹の中の蟲が暴れることは無い。
でも、食べるのを止める事はできない。確かに、この中にはまだ蟲がいるのだから。
「嫌だ…」
誰にも聞こえないように小声で呟く。誰にも聞かれる訳にはいかない。
誰にも知られる訳にはいかない。
私は、ゴミ子なんかと同レベルではないのだから…
***