塵屑蟲
15、
***
「ふぅ…ふぅ…」
私の口から荒い息が漏れる。
「よい…しょ…」
重い体を動かして、ベッドに横になる。
「ふぅー…」
クーラーを入れていても、暑い。体中から汗が噴き出て、気持ち悪い。
視線を自分のお腹の方に向ける。
そこには、これは人間の体の一部なのかと疑いたくなるくらい脂肪で膨れた私のお腹があった。
夏休みが半分過ぎ、こんな体だからほとんど外に出なかった私は、
もの凄いペースで太り続けていた。
1週間程前に、180キロをオーバーしてから体重は量っていない。もう意味も無いだろうから。
でも、それ以降も少し、お腹が膨らんだ気がする。いや、お腹だけじゃない。
腕や、脚や、顔にもどんどん脂肪がついて、自分の身体が何か別の物になるような気すらする。
「別の物…」
別の物、と言えば、夏休みの初めに話をして以来、ゴミ子と会っていない。
あの日聞かされた話は、未だに信じられた物では無い。でも、もしもあの話が本当なら。
あの子は…まだ生きているのだろうか。
「…はぁ…」
ため息が出る。ゴミ子の事も気掛かりだけれど、自分の体も不安だ。
最近、1日1日毎に分かるほど早く体が太ってゆく。
食べたものが、そのまま肉になっているのか、というほど早い。
私は、どこまで太り続けるのだろうか。
お腹の中の蟲は、私をどんな生き物に変えようとしているのだろうか。
普通、ここまで一気に太ったら、動きが鈍くなったり、
起き上がれなくなったりするのではないだろうか。
でも、私の体はその気配を見せない。今でも、日常生活が困難になるような事は無い。
どうして。もしかして、お腹の中の蟲は、私の体の動きまでサポートするのだろうか。
自分の体が、自分の物では無くなっていく恐怖とは、こういう事を言うのだろうか。
「…ん…。」
目を閉じる。眠くなってきた。
窓から差し込む夕日が、肉と脂肪で膨らんだ私の体を、毒々しい赤色に照らしていた。
***
目蓋を開くと、窓の外は既に暗くなっていた。
どのくらい眠っただろうか。
食べて寝てを繰り返す生活で、すっかり時間の感覚が狂ってしまっている気がする。
今、何時だろうか。枕元に置いてあった携帯電話の時計を見る。――夜の8時。
「ケータイ…」
そういえば最近、携帯電話なんてめったに使わなくなった。
私からも。かつての友達からも。メールなんて、しない。
こんなデブと、積極的に関わろうとする女子なんて、私のクラスにはいないだろう。
家族とも、あまり会話なんかしない。どんどん、私は一人になってゆく。
「このまま…私は…」
どうなるのかな?そんな事を考えていると、突然手元の携帯電話が鳴った。
「…え?メール?」
でも、誰から?
「え!?」
送信者は、見たことも無いアドレス。でも、件名は――
「え、これ…。ゴミ子…?」
ゴミ子の本名。しかも、フルネームだった。
「なんで…?」
どういう事だろう。私は、あの子にアドレスも番号も教えた覚えは無い。
誰かから聞いたのだろうか。…あの子が、聞けるのだろうか?
要件を確認する。メールを開くとそこには、
『夜 9時 駅前の公園 で 待つ』
とだけ書かれていた。
「待つ…って…」
おかしい。あの子らしくない。あの、根暗なゴミ子が、こんな威圧的な文章を書けるだろうか。
それに、向こうから呼び出しとは。
「なんだろ…?」
とりあえず、ゴミ子のフルネームで来たメールだ。送り主も、多分あの子だろう。
実際に行ってみれば、分かるだろうか。
私は、了解の旨を伝えるメールを返信して、重い体をベッドから起こした。
***
「ふぅー…ふぅー…、ぶふぅー…」
暑い。夜と言っても、今は夏だ。もちろん、気温もそんなに低くなるわけじゃない。
多分もう200キロを超えたであろう体を揺さぶって、駅前の公園に急ぐ。
今は8時50分。間に合うだろうか。
ジャージが汗で体に貼り付く。たかだか駅前までの道のりで、汗でびしょびしょになってしまう。
「はぁ…はぁ…」
息が熱い。体が熱い。重い。
以前の私なら、5分や10分で歩けた距離。
今は、少し歩いては休みつつ、たっぷり20分はかかる距離。
やっとの思いで公園に着くと、9時をほんの少し過ぎていた。
このくらいなら、遅刻にはならないと思う。
「はぁ…はぁ…っ…」
息を整えながら、ゴミ子の姿を探す。
あまり大きくない公園だ。犯罪防止用の街灯もある。すぐに見つかるはず。
私は首を左右に向けながら、ゴミ子の姿を探していた。すると――
『――…来たか。』
突然、耳元に低い声が響いた。同時に、りーん、という鈴虫が鳴くような耳鳴り。
「え…?」
驚いた私が振り返ると、さっきまで誰も立っていなかった場所に、奇妙な影が立っていた。
『突然呼び出して、すまない…。急を要する、話だった…。』
形容しがたい、奇妙な影――いや、生き物……いや、それも違う…。
『辺りの人間は、払っておいた…。安心、しろ…。殺しては、いない…。』
“バケモノ”としか言いようのない何か。
全身黒い光沢のある、鎧というか、殻のような物に覆われた、2メートル程はある、バケモノ。
二本の脚で立ち、鎧と筋肉が合わさったような生々しい腕を、肩から、背中から、
左右3本ずつ6本も生やした、バケモノ。
「ひ…」
なんだ、こいつは。怖い、逃げなくちゃ。でも、この身体で、どうやって。
『怖がるのは、無理もない…。人間は、我々に恐怖する生き物…。』
真ん中に目玉のような形の、黄色い宝石みたいな物が付いた、頭と思われる部分から、
声が聞こえる。
『だが、聞いてほしい。お前に…伝えなくては…。』
***
私は、夜の公園のベンチに座っていた。この体重では、立ち話はさすがにできない。
目の前には、さっき話し掛けてきたバケモノが立っている。
よくよく見ると、カブト虫とクモを足して割ったような姿だ。
こんな姿で、ベンチに座るのは無理だろう。
ふと、こいつの姿を見ていたら、小さいころ古いおもちゃ屋で見かけた怪獣の人形を思い出した。
カミキリ虫みたいなデザインで、火の玉を吐くとか、箱に書いてあった気がする。
さっきはパニックになっていた私の頭も、そんな事を考えていたら落ち着いてきた。
「ねえ…あなた、もしかして…」
ずっと気になっていた事を聞いてみようと思った。
『…我は、“蟲”だ。』
ゴミ子のフルネームで、あえて私をこんな所に呼び出したバケモノ。やっぱり、こいつが…
『お前に巣食う蟲も、我が…使わせたものだ…。』
自分の表情が険しくなるのが、自分自身でもわかった。
『…我を憎むのは…当然の事だ…。』
「ねえ、あなたは、一体なんなの…?」
私の質問に、バケモノは一瞬考える素振りを見せた。
『…我は、“蟲”だ。が、お前のそれが“立場”を聞く質問なら、こう答える。
我は…いや、我々は、お前達から、時に“悪魔”と、時に“妖怪”と、時に“魔人”と呼ばれている。』
妖怪。悪魔。とても、現実的では無い話。ゲームやアニメのような話。
夏休みの初めに、ゴミ子に聞いた話が頭を過ぎる。
『…我々は、お前達が欲するが故、現れる。
お前達の大切な物を対価に、お前達の願いを、我々のやり方で叶える。
それが、我々の“立場”だ。』
「魔法とか、呪いとか、そういうので…?」
『…ある者は、そうかもしれない。が、我自身は、いわゆる“不思議な力”は使えない。
我が使えるのは、配下の“蟲”だけだ。その――』
バケモノは、私の膨れたお腹を指して言った。
『――お前の、腹の中に巣食うような、蟲だけだ…』
私の体の中の蟲は、このバケモノのせいなのか。
「…なんで、私を呼び出したの?」
こんな夜の公園に。妖怪だか悪魔だかが、携帯電話なんか使って。
この外見のバケモノがメールを打つ姿は、きっとかなりシュールな光景だろう。
『…時間が、無い…』
蟲のバケモノは、なんだか力のない声で言った。
『…我を呼び出した少女の命が、尽きようとしている…。』
「え…?」
何の話だろうか。いや、このバケモノを呼び出した少女、と言ったら…。
「ゴミ子…」
『…今から、300日ほど前…。あの少女の絶望と、憎悪が、我を呼び寄せた。』
300日…だいたい、去年の冬の初め頃。
『少女は、己の憎悪によって引き寄せられた我に…、異形の怪物に…、己の“願い”を言った。
自分の心を踏み躙ったお前を、ただ醜く、ただ惨めで、誰からも蔑まれる身体に
変えてやる力が欲しいと言った。』
ゴミ子が、そんな事を。…よっぽど、私が憎かったのか。
『…少女の差し出した“対価”は、自分の命と、肉体だった。』
胸の奥が苦しくなる。ここまで歩いてきた時の、重い体を無理に動かした時とは違う苦しさだ。
『それほどの対価があれば…我は、我々異形の怪物は、あらゆる事ができる。
我は早速、少女の体に数多の蟲を巣食わせ、様々な事ができる様にした。
…一針刺せば全身に発疹のできる毒を持つ小蟲。香を嗅げば全身の自由を奪う毒液を吹く蛞蝓。
脳を揺さぶる振動を硬羽から出す羽蟲…。己の眼の代わりに遠くを見渡す蛾蟲…。
それらの蟲達を直ちに呼べるように、少女の身体の、全ての血管に細工まで施した…。
――お前の腹の中の蟲も、少し前に、我が少女に授けた物だ…。』
どれも、心当たりがある気がする。
もしかしてゴミ子は、私に復讐するために、クラスの――いや、学校中の生徒に……
『少女の計画は…おそらく、周到だったのだろう。
すべてがうまく運び…お前の体を醜く変えるのみならず、
さらには、誰からも避けられる立場にすら追い込んだのだから…。』
新種の皮膚病と言われてイラついていた友人と、喧嘩したあの日の事を思い出す。
そうか、あれも全部……
『だが…最後の、最後になって…少女に迷いが生じた。』
「え…?」
私は顔を上げた。バケモノの顔のような部分を見たが、表情は分からなかった。
『…少女は、最終的にはお前を殺す…いや、“死”以上の苦しみを与えるつもりでいた。』
…強い言葉に、背筋が少し寒くなる。死ぬこと以上。どんな苦しみだというのか。
『…お前の中に巣食う蟲は、成熟しようとしている。
その蟲が成熟すれば、お前は欲望のままに食物を貪り、
蟲に生かされつつ永遠に肥え続ける“異形”になる。』
「え…っ…!?」
『…それは、お前という“個”が死ぬと同時に、しかし体は死なず、
その現実を永く味わい続けるという事だ…。』
言葉がでない。そんな、それじゃあ、私はこのまま……
『だが、なぜか、最後になってあの少女は…それを否定した。
お前に、そのような絶望を味わわせる事を、選ばなかった…。
なんでもする、なんでも差し出す、だから、お前の事を救って欲しいと言っていた。
つい…数日前の事だ…』
ゴミ子がそんな事を。痩せ細ったあの子の腕を思い出す。あんなになって…
『しかし、あの少女にはもう、差し出せる物は残っていない。既に臓腑の大半は我の使わせた蟲が
食らい尽くし、わずかな金品も、他人との絆も、すべてお前への復讐の犠牲にした後だった。』
バケモノの話が途切れた。夜の公園に静寂が落ちる。
私への復讐のために、自分の全部を投げ捨てたゴミ子。
でも、最後の最後に私を助けようとしているゴミ子。どうして。
私が憎いのなら、いっそそのまま、このお腹の蟲が成熟するのを見ていれば良かったのに。
どうして。
『…我と、勝負をしよう。』
「え?」
突然のバケモノの言葉に、私は地面に落としていた視線を上げた。
『…このままでは、あの少女の願いを叶える事はできない。
あの少女は、既に対価になりうる物を持っていない。』
バケモノの顔らしき部分の真ん中の、目のような球体が鈍く光った。
『…だから、我と、お前とが、勝負をしよう。』
***
――古くから人間と妖魔は、力比べで物事を決めていたらしい。
つまり、賭け勝負。それは、刀や剣での真剣勝負から“とんち”合戦まで、様々なのだそうだ。
何処の国や地域にも、人間とバケモノの対決した話が伝わっているのだとか――
公園から帰ってきて、お風呂に入って、自分の部屋のベッドに横になった時には
既に0時近くになっていた。
公園でバケモノに聞いた話を思い返す。
…ゴミ子は、あと数日で死ぬらしい。
誰のせいだろう。誰かのせいなのだろうか。
「……。」
でも、あのバケモノが言うには、部下の蟲に内臓の代わりをさせる事で
、延命措置はいくらでもできるらしい。
「…めんどくさい生き物なんだなぁ…」
しかしゴミ子には、もう“対価”が無い。それでは、ゴミ子の願いは叶わない。
バケモノが、願いを叶える事ができない。
だから、私があのバケモノと勝負して、あのバケモノを屈服させる事で、
私に「命令」してほしいのだそうだ。
そう、ゴミ子の命を助けろ、と。
自分の体に視線を向ける。横になっていると、まるで砂浜に打ち上げられたクジラのような私の体。
風船のように膨らんだ、私のお腹。こんな体で、一体どんな勝負に勝てるというのか。
勝負の方法は、明日教えてくれるそうだけれど、私は不安と動揺で一杯だった。
いつの間に寝てしまったのかも、分からないほどに。