塵屑蟲
16、
***
夜が明けた。今日、私はバケモノと戦う事になる。
…どんな勝負をするというのか。
まさか、本当にゲームや漫画みたいに、正面から殴りあう事になるのだろうか。
「…無理だよ…。」
思わず口から独り言が漏れる。無理だ。
この身体で、いや、例え元の痩せた身体でも、あんなどこかの怪獣みたいな奴に勝てる訳が無い。
ベッドから身を起こす。
立っていても座っていても、もう下が見られない程に肥えて膨らんだ私の身体。
もう、太っているというより肉の塊に手や足が生えていると言ってもいいほど
ブクブクに脂肪のついた私の身体。
今、何キロだろう。200キロ?210キロ?そんな、生易しい数字なのだろうか。
ベッドに座って、そんな事を考えていると、頭の上から声がした。
『…目は、覚めているようだな。』
顔を上げると、天井に握り拳くらいの大きさの虫がはり付いていた。
あのバケモノの手下の蟲だろうか。
『…勝負の、方法を伝える。我の使わせた蟲を介して、お前にも我の声が聞こえている筈だ。』
やっぱり、そういう事か。なかなか、バケモノらしい事をする奴だ。
『…勝負の方法だが―――』
「待って。」
『――ふむ……?』
思わず、私はバケモノの声を途中で遮っていた。
「やっぱり、無理だよ…。私、あなたのせいで、こんな身体だし…、
あなたと戦ったりとか…その…、人間であなたに勝てるものなの…?」
我ながら、情けない弱音だと思う。でも、言わずには居られなかった。
こんな事を言うと変だと思うけれど、なんだか、
今の私はバケモノ達から見てかなり美味しそうに見えるんじゃないだろうか。
勝負、と言いつつ、私を食べてしまうつもりなんじゃないか、と、
オバケに怯える子供みたいな事を考えていた。
『…片方に勝機の無い闘争は、“勝負”ではない…。我は、虐殺を望んでいる訳では、無い。
…勝負の方法を、お前に伝える――』
天井にはり付いたカブト虫のような蟲から、今日の勝負のルールが説明された。
***
“日が沈むまでに、丘の上の公園まで、歩いて来い”
――それだけ。
勝負のルールは、たったそれだけ。バケモノと、剣や魔法なんかで戦う訳じゃ、無いらしい。
ゲームとか、映画とか、そういうのでは悪魔とか妖怪とか言ったら本当に“戦う”から。
てっきり殺し合いでもするものだと思っていた。
もうずっと着っぱなしのジャージ姿で靴を履いて、玄関を出る。夏の日差しが、私の身体を照らす。
丘の上の公園。私も、何度か行ったことがある。
ここから、バスで15分から20分くらい行った後、20分ほどのハイキングコースを上った先にある、高台の公園。
歩いて行くなら、どれくらいだろうか。2時間?3時間?
「…今から出たら、余裕じゃないの…?」
今、午前10時くらいだ。
今から歩いて丘の上の公園まで行ったとして、いくらなんでも日が沈むまでには着くだろう。
…おかしい。そんなに簡単な内容の勝負なんて、おかしい。
「いや、考えても意味無い。」
そうだ、例えどんなに裏があったとしても、この勝負に勝たないと、ゴミ子は死んでしまうのだ。
行こう。とにかく、行こう。今の私には、誰かの命がかかっているのだから。
***
「はぁ…っ…はぁ……ふぅ……」
暑い。とにかく暑くて苦しい。
「う…ぐ…ぅ…」
家を出て、まだ5分程しか経っていないのに、体中から汗が噴き出して、脚が重くて上がらない。
昼間に外に出て歩くのは、こんなに辛い事だったのか。
肉と脂肪の塊に包まれた私の身体が、無理な運動と夏の日差しで火照ってゆく。
「これ…っ…。はぁ…はぁ…。キツぃ……っ…」
まだ家から500メートルほどしか来ていない。それなのに、もうこんな調子。
――丘の上の公園まで――そんな言葉が頭を過ぎる。
…たどり着くだろうか。日の沈むまでに。いや、何日かかっても。
「ふぅー…ふぅー…」
手近な電信柱に手をついて息を整える。額から汗がしたたり落ちる。自分でも分かるくらい汗臭い。
「(あら…?あれ、2丁目の家の子だわ…)」
「(あら、本当…)」
「…!!」
不意に、背後から声が聞こえた。年配の女性の声。誰かと誰かが話す声。二つの声。
私は、顔をそちらへ向けることができなかった。
そうだ…そうだった…。“これ”があった。
「(なんというか…すごいわね…)」
「(最近、見ないと思ったけど…病気かしら…。)」
心臓が、さっきまでとは違う激しさで脈を打つ。やめろ。やめて。やめてください。
「(何してるのかしらね…)」
そんなこと、あんたたちには関係ない。
「(あんなに太っちゃって、大変ねぇ…)」
その大変さが、なんであんたたちに分かるんだ。
「(歩くのも、やっとなんじゃない…?)」
うるさい、そんなことない。
私はまた歩き出した。再び、容赦なく汗が噴き出す。それでも、足は止めない。止めたくない。
私は、日が沈むまでに丘の上の公園に行くんだ。絶対に。誰かの命を、助けてやるために。
***