塵屑蟲
18、
***
「ぶふぅ……。ふぅ…。ぶ…ふー…」
おかしい。
「うぐ…。ふー…。はー…。」
おかしい。体が変だ。
公園のある丘までもう少し。この道をまっすぐ行けば、あそこに見える丘に着く。
そして、あの丘を登れば、約束の“丘の上の公園”
「ふぅ…ふぅ…」
なのに、なぜ。
「どうして…」
私の身体は、家を出た時より確実に大きく重くなっているのだろうか。
水をたくさん飲んだから。お昼に、ハンバーガーを山ほど食べたから。
その後も、あちこちで少し休みながら、公園や休憩所の水道で水を飲んだから。
「でも…っ…。ふぅ…ふぅ…」
それにしても、家を出る時は少し緩いくらいだったジャージが、
上も下もぱつんぱつんになるくらい太ったりするものだろうか。
身体が重い。丘が遠い。 どうしても、行かなきゃならないのに。
身体が暑い。喉が熱い。 どうしても、間に合わなきゃならないのに。
「どうしても…?」
私は、ふと足を止める。
「私…」
なんで頑張ってるんだろう。
ゴミ子の命を救うため?勝負? …なんで、私が?
私が頑張ったところで、あのバケモノは約束なんて守るのだろうか。
自分で自分を悪魔だとか言った奴が。
私が、こんな身体になったのは、あいつらのせいなのに。ゴミ子と、バケモノのせいなのに。
ここまで来るのにだって、いろんな人から、笑われて。指差されて。白い目で見られて。
ゴミ子のため?あんな気持ち悪い奴のため?クラスでも浮いていて、暗くて、鬱陶しくて?
違うの?どうして?私は、なんのために。
***
「はぁ…はぁ…」
丘のふもとから、公園へ続くハイキングコースを見上げる。
丸太でできた階段が、丘の上まで続いていた。
地元の幼稚園や保育園が遠足に行くような道だ。長くは無い。急でもない。
ちょっと体力のある人ならば、一気に走って上ることもできるかもしれない。
「ぐ…っ…」
もう、家を出てからかなり時間が経っている。日も暮れてきた。残り時間は少ない。
私は、この階段を上りきらないといけない。
「はぁ…はぁ…」
階段を一段上る度に、一息休憩を挟まないと辛い。
これだけ重たい体を、丘の上まで運ばなければならないのだ。
「う…ぐ…」
足が痛い。当然だ。だって、家からここまで、こんな巨体を引きずって来たのだから。
「ぜぇ…ぜぇ…」
家からここまで、本当に大変だった。いつも、誰かの視線が怖くて、体が辛くて。
いつも、誰かが私を嘲笑っている。いつでも、私は驚異と好奇の目で見られている。
今も、辛い。階段が、まるで断崖絶壁のように感じる。
体が、熱い。まるで、砂漠にいるみたいだ。
何が 起こったのだろう。
どうして、こうなったのだろう。
何故、私がこんな目に遭わなければならないのだろうか。
私は――
***
『…遅かったな』
私が、丘の上の公園に着いた頃には、すっかり暗くなってしまっていた。
じっとりと湿った夜の空気が、肉汁のような汗でずぶ濡れになった私の身体を撫でる。
『…太陽は、沈んでしまったが。』
それほど大きくない公園の真ん中に立ち、私を待っていた蟲のバケモノは静かに言った。
相変わらず、顔と表情は分からない。
「はぁ…はぁ…」
“日が沈むまで”に。間に合わなかった。できなかった。私には――
『…我は、お前は途中で引き返すと思っていた…。』
蟲のバケモノが、静かにこちらに歩いてくる。漂う雰囲気は、とても穏やかだった。
『我が知る“人間”は…、皆、我ら“異形”に願いを託し、成就するや、
蜘蛛の子を散らすかのように逃げる者ばかりだった。』
ぜぇはぁ と肩で息をする私に、バケモノは穏やかに語りかけてくる。
『様々な者がいた…。我らは、命令に従う。願いに従う。それぞれの能力と技術を駆使し、
どんな手を使っても、叶える。此度のように、誰かの美貌と地位を奪うために、
“肥え太らす”という辱めを他人に与える力を欲する者も、数え切れなかった…』
バケモノは、どこが顔だか、目だか、分からない顔で。
『人間とは…、常に我が儘で、常に、他の者の足元を狙っている者ばかりだと、思っていたのに…。
いや、それが、偏った誤りだというのも、分かっていたのだが…。』
でも、確実に――
『…お前のように、友の為に、必死になれる者も…たしかに、いるのだな…』
――笑った。
「え…え…と。でも、日は暮れちゃったし…。勝負…?ってのは、私の負けで――」
『いいさ…。勝負を放棄するだろうと思っていた相手が、ここまで来た。我の見当は、外れた。
我の、負けだ。時間なんて、元から、どうだっていい…。…いいんだ。』
人間でも、こんなに穏やかに笑ったりしないような、そんな気がした。
『周囲の蔑みの視線にも屈せず、変わり果てた自らの身体にも心狂わせず、例え…
もう間に合わないと悟っても、逃げず、ここまで来ることができる。
そんな人間に…、我が敵う筈も、無いさ…。』
そして、バケモノはそのまま私の前に跪く。黒い6本の腕が、ギシ、と軋んだ。
『我は、この勝負に負けた代償として…、
ただ一つ、貴女の如何なる願いも聞き届け、成就させる所存。
我に、命令を与え下され。』
しばらく――といっても、5秒くらいだったかもしれない。私は、声が出なかった。
私は、ここに何をしに来たんだっけ。私の身体を、元に戻してもらう為だったか。
それとも、何か欲しい物があったんだったっけか。
一つだけ。たった、一つだけ。どんな願いでも?
「私は――」
バケモノに、“命令”を出した。
***