令嬢・九条麗奈の献身 第六章・中
第6章中:レストランで花は咲く (2)
私は自分に言い聞かせました。
これからの数十分間は愛する彼を喜ばせるための『下品なショー』なのだと。そして私は『下品な彼女』という役柄を演じる女優になるのだと――
(望田さま……貴方はゲップだけではなく、下品な振舞い全てがお好きでしたわよね。でしたら一度決めた以上、徹底的に下品に振舞ってみせますわ……!)
意を決した私は、再びナイフとフォークを手に持ってステーキに向かい合います。
わざと大きめのサイズにステーキを切り分けると、その巨大な一切れを強引に口に押し込む。当然私の口周りにはソースが付着し、唇が油でベトベトになります。しかしそれを拭き取ることはせず、今度はライスの皿を持ちあげステーキの咀嚼も終わらない内に口に流し込みます。ハムスターのように口いっぱいに詰め込まれた食べ物を何とか喉元へと押しやると、最後はジンジャーエールで更に奥へと流し込む。ストローも使わず一気に飲み込んだジンジャーエールは、ゴクリ、ゴクリと豪快な音を立てながら、全ての汚れを胃へと運ぶ。その代わり、炭酸から発生した大量のガスが今度は胃から食道へと逆流し、食べた分を吐きだすかのように『ソレ』が口まで上っていきます。そして――
「ぐぇぇぇぇぇぇぷっ!!!!」
盛大な音を立てて放出されたゲップは、数m先のテーブルのおばさん達や客を待つ先ほどのウェイターも眉をひそめる程の轟音でした。私も反射的に顔を赤らめてしまいますが、不思議な達成感が全身に広がっていきました。
「あぁ……凄いのが出てしまいましたわ♥ 望田さん……今の私、とっても下品ですわよね?」
「す、すごいよ麗奈さん……! とっても下品で最高に素敵だよ!」
「そうですか……それは何よりです♥」
恥ずかしいという気持ちは決して消えた訳ではありませんでしたが、彼の驚きと興奮に満ちたその反応に私は手ごたえを感じました。
(あぁぁ……望田さまも喜んで下さいましたわ♥ 私もとっても嬉しいです……♥)
気持ちが高揚したのか、私はステーキの最後の一切れにフォークを豪快に突き刺しました。ソースと脂で更に口周りを汚しながらステーキを口に運び、すぐさまスプーンと皿をガチャガチャとぶつけながらライスを口へとかき込みます。そしてクチャクチャと不快な咀嚼音を響かせながら、最後には炭酸で喉に流し込みました。
「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……げぇぇぇぷっ!!!!」
再び豪快なゲップ音がその場に響き渡ります。もはや望田さまの視線は私に釘付けでした。
そんな彼の情熱的な視線に更に気を良くしたのか、私は自信たっぷりに言い放ちます。
「あら……失礼いたしました♥ またお下品なモノが出てしまいましたわね……ふふっ♥♥」
「ほ、本当に凄いよ麗奈さん! 驚いたな、君がそんなに下品に食べるなんて。ゲップだけじゃなくて、食べ方そのものがとっても汚くて、すっごく興奮するよ!」
「ふふっ……驚いて頂けましたか? マナーを破るのはとても心苦しいですが……全て望田さんの為ですわ♥ だから私の貴重な下品な姿、しっかりと目に焼き付けて下さいませ♥♥」
私は次第に下品であることの恥じらいや羞恥心が薄らいでいくのを感じ、そして同時に男に尽くす女の喜びが全身に広がっていくのを感じました。
「ステーキの次はハンバーグですわね。ふふふ……とっても美味しそうです♥」
モグモグ、クチャクチャ、ガチャガチャ、ゴクゴク……ぐぇぇっっぷ!
散々な不快な音をまきちらし、最後にはとても女性の口から発せられたとは思えない豪快なゲップ――。音だけではありません。口にはべっとりとソースと肉の脂が付着し、滝のような汗が全身の毛孔から放出されていました。さらに大量の汗は、独特の酸っぱいような匂いを周囲に振り撒きます。耳を、目を、鼻を通して、私は『下品なデブ』という役柄を完璧に演じきっていました。
(なんとはしたなく、なんと下品な食べっぷりでしょうか……♥ ですが望田さまの為なら……望田さまだけになら……私は貴方の理想の恋人を演じてみせますわ♥)
しかし、私は気づいていませんでした。このショーの観客は、目の前の彼一人だけではなかったのです。
*****
「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……げぇぇっぷ♥」
順調に食べ進めていた私にその異変が襲いかかったのは、ハンバーグが最後の一欠片になろうかとしていた時でした。いえ本当はもっと前から既にその兆候はあったのに……私はそれに気付いていなかったのです。
「何あの子……!? さっきからあんなに汚く食べて、一体何を考えているのかしらね。」
「ホントホント……公共の場であんな下品な音立てて、恥ずかしくないのかしら?」
「人様に迷惑をかけてるって自覚はないのかしらね、全く……。」
(えっ……!?!?)
平日の昼下がりとはいえここはレストラン――公共の場です。近くのテーブルでは、会話を楽しむおばさん達のグループが陣取っていました。愚かにも私は、そんな事にさえ気付いていなかったのです。
おばさん達の批判を耳にして、私の意識は一気に現実の世界に引き戻されました。周りの状況を確認すると、おばさん達は口ぐちに午後のティータイムに突然水を差した『下品なデブ』への悪態を付いています。別の方向へ目を向けると、先ほどのウェイターと目があってしまいました。『営業妨害するんじゃねぇよ、この糞デブ!』――彼の目が、そう訴えているようです。
後悔と羞恥心が全身を駆け巡り、私の額からは冷や汗が滴り落ちます。魔法が解けたかのように、いつもの九条麗奈に戻ってしまったのです。もはや私は望田さまに助けを求めることしかできませんでした。
「す、すみません。これ以上は……その……」
「あれっ……急にどうしたのかな? 今さら何を驚いているのさ。公共の場であんな豪快にゲップしたらどうなるのかなんて、少し考えればわかるよね?」
「そ、それは……初めてこういう場所に来たのでそんな当たり前のことさえ頭になかったのです。貴方一人の為ならばと思っておりましたが、他の方の前でこれ以上は……。も、申し訳ございません!」
「さっき俺さ……心の底から下品な君の姿を見られて幸せだなって思ったんだ。もっと見せて欲しいな、って言ったら駄目かな?」
「い、いえ……それは――」
「約束……してくれたよね?」
「……は、はい……。」
私に逃げ場などありませんでした。
しばらく息を整えた後、私は恐る恐る食事を再開します。しかしこちらも馬鹿ではありません、私には策がありました。
(幸い食事のほぼ半分は既に完食しております。ならば出来るだけ炭酸を飲まずに、食事を済ませることも不可能ではないはずですわ……。)
ハンバーグは残り一欠片。先ほど同様肉とライスを口いっぱいにかき込むと、炭酸には手を付けずにそれらを強引に飲み込みます。そしてすぐさま3品目のエビフライへ。喉の渇きと息苦しさに襲われますが、限界まで飲み物には手は出さず早食いを心がけます。ですが――
「げぇぇぇぇぇっっぷ!!」
エビフライを食べ始めて1分足らず――不意に私の口から強烈なゲップが放出されたのです! おばさん達に「ほらまた出たよ!あの糞デブ女!」と罵られると、私は羞恥心で顔が真っ赤になりました。
「麗奈さんが炭酸を飲まずに早食いしようとするのは予想通りだったよ。でも炭酸を飲まなくたってゲップは出ちゃうでしょ。ましてや慣れない早食いなんてするなら、余計にね。さぁ、もう無駄な真似はやめてさ、さっきみたいに下品な姿……俺に見せつけて欲しいなぁ。」
もはや八方塞がりでした。どうしようもない状況に私は泣きたくなりました……いえその目は既に潤んでいたと思います。しかし泣いたところで何も変わりません――私に残された選択肢は一つだけでした。
彼は笑顔でコーラの注がれたグラスを差し出します。
並々と注がれたコーラは氷でキンキンに冷え、美味しそうにプクプクと炭酸の泡を浮かべていました。
私は最初、恐る恐るコーラを口に運びます。ですが久しぶりの水分に身体全身が喜んだのか、一瞬のうちに半分以上のコーラは私の喉の奥へと消えていきました。そして炭酸のガスはすぐさま、「げぇっぷ」と汚らしいゲップに変わります。
(あぁ皆さま……本当に申し訳ございません! どうか下品な私をお許しくださいませ。)
私は心の中で、この場にいる全ての人間に謝罪しました。決して伝わる事はないはずなのに、その無意味な謝罪は私の心を軽くしました。
歪んだ欲望の蕾が、私の中で再び開花し始めました。
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