俺と陽菜乃と彼女の生きる道 第六章
6章:何のために生まれて
「……このθ=15°は見た事がないので戸惑うかもしれないが、さっき教えた加法定理を使うと……」
ガツガツ……クチャクチャ……
「……よって、30°と45°に分けて考える事が出来るので、ここからは数学Iで習ったように……」
モグモグ……ゴクゴク……
授業を進めていた教師は一旦言葉を止め、授業を遮るその音の発生源に冷ややかな視線を向ける。だが当の本人はそれに気付いていないのか、それでも食事を止めようとはしない。
ガツガツ……クチャクチャ……
「陽菜乃ちゃんっ……先生が見てるよ……」
「……モグモグ……ゴクンッ……!? す、すみません、先生っ!」
「いいか橘……お前が授業中に飯を食うこと自体はこの際怒らないでおいてやる。だが授業の邪魔だけはするな、分かってるな。」
「はいぃ……。し、静かに食べますからぁっ……ご飯を食べるのだけは許して下さいぃ……」
((んふっwww))
彼女の発言に思わず、一部の男子生徒が噴き出す。
(ちょっと……アンタら、なんで笑ってるのよ。)
(いや、この空気でまだ食うのかよって……絶対皆思ったでしょ……。)
(仕方ないでしょ。橘さんだって、病気で大変なんだから……。)
(病気ねぇ……。病気の人間なのに、あんな豪快に飯食う元気はあるんだろ。)
(それにさ、折角こっちが腹を空かしてつまらない授業を黙って聞いてるってのに、アイツだけ飯食ってるってさ、不平等じゃね?)
(それは……そうだけど……)
「おい、お前たち! 俺の授業がつまらないってのは、どういう意味だ!」
「ヤベッ……あ〜、聞こえてましたか先生。すみません……。」
「全く……だがあいつらの意見ももっともだ。ともかく、授業の邪魔だけはするな……。お前が大変なのは学校も理解しているんだ、大人しくしといてくれれば卒業はさせてやる。良いな!」
「分かりました……。」
そう言い残すと、先生は授業を再開する。
そのタイミングを見計らい陽菜乃は出来るだけ静かに、食べかけの惣菜パンを口に運ぶ。
それをクラスメートたちは呆れた表情や同情の眼差しでチラチラと見ている。
(うわ、本当に食ってるし……)
(あれ、完全に授業受ける気ないよね。何しに学校に来てるのかな。)
(もうあれはただの豚だろ……昔は可愛かったのに残念だわ〜。)
今の陽菜乃はもはや、1時間の授業の間でさえ食事なしでは耐えられなくなっていた。一応病気という名目の下で授業中の食事が黙認されているものの、実際はそんな彼女を快く思っていない生徒が大多数であった。ましてや皆、かつての陽菜乃の端麗な容姿を知っているからこそ、今の陽菜乃の姿に好奇と憐みの目を向ける事は仕方のないことなのかもしれない。
幸か不幸か、食事に夢中の陽菜乃には、そんなクラスメートの声は届いていないようである。
しかし、言いかえるとそれは、先生の声さえも陽菜乃の耳に聞こえていないのだ。
勉強をするためのこの教室で、彼女は一人、食欲を満たすことしか出来ないのである――。
*****
「陽菜乃、一緒に帰ろうぜ。」
放課後。帰宅部の俺はいつものように陽菜乃と一緒に校舎を出た。
グラウンドでは陽菜乃がかつて所属していた陸上部が練習をしていた。その姿をただ羨ましそうに眺めることしかできず、陽菜乃は逃げるようにそそくさと学校を後にする。
そして、積りに積もった彼女の本音が口から洩れ始めた。
「私ぃ一体何やってるんだろうね……。」
「陽菜乃? どうしたんだ急に。」
「私って一体何のために学校に来てるのかなぁ……。勉強も部活も出来ないしぃ、学校の皆もこんなデブの私に愛想を尽かしてる……。もういっそぉ、学校に行かない方が皆も幸せになるのにぃ……。」
「そ、そんな事ないだろ! 陽菜乃はただ皆と同じ生活を送ろうと頑張ってるだけじゃないか……誰が何と言おうと、それは間違ってないさ!」
「頑張っても、頑張ってもぉ……どうせ無駄なんだよぉっ! 均ちゃんだってぇ分かってるでしょぉ……今の私はお腹が空くと何も手が付かなくなるからぁ、大学受験も就職も出来ないじゃないぃっ……。私なんて、皆のお荷物でしかないんだよぉ……。」
かつての太陽のように明るい陽菜乃はもはや消え去っていた。俺がどんなに励ましても、陽菜乃の口からはネガティブな事ばかりが溢れ、通学路を歩く2人の間に重苦しい雰囲気が流れる。
だがサーラの魔の手は緩めることなく、陽菜乃に襲いかかろうとしていたのである。
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